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風変わりドイツ留学記 〜医師がピアニストになった経緯 1−2章 (これは1990年代に執筆されたものを再掲載しています)

はじめに

私は眼科医としてドイツに留学したが、2年間の医学研究生活を送った後、フランクフルト音楽大学に入学してピアノを勉強し、卒業後はピアニストになり、またドイツの音楽大学にて音大生を教育する立場になった。音楽家をやめて医者になる人は時々いるが、その逆はあまりいない。普通の人には考え難いこの人生の転換が、なぜ、どのようにして行われたかを説明することは、お世話になった多くの方々に対する私の義務であると思うし、また、それがあまりに常軌を逸しているだけに、一般の人々にとっても、その事情を知るのは興味深いことかもしれないと考え、この拙文を世に出すことにした。

私は幼少時よりピアノを習い、小学生のころには、将来は絶対ピアニストになるのだ、と思っていた。ところが、我が家の経済力では音楽を勉強することはまず不可能である事に気が付いたので、中学生のころ音楽の道に進むことを断念し、かわりに医学部を目指した。

京都大学医学部で勉強したのち、眼科医になり、さらに京都大学大学院に進んで視覚電気生理学の研究により博士号を取得した。

私が医学生だったのは、丁度学園紛争の嵐が一番激しく吹きすさんでいた時代にあたり、1年あまりもストライキが続く、といった異常な状況だったが、そのおかげでピアノのための時間がたっぷりあって、毎日京都大学音楽研究会に入り浸って独奏や伴奏をして楽しんでいたから、大学時代にピアノの腕は上がりこそすれ、衰えるようなことはなかった思う。また、時には専門家の藤村るり子先生、マックス・エッガー先生にレッスンしてもらっていた。しかし、アマチュア・ピアニストの私が人前で演奏するのを快く思わないプロの方もいたので、時には、今から考えれば不当と思われるような批判を受けたこともあった。そのため、日本にいる間は、「自分はアマチュアとしては上手いとしても、専門家の方々の演奏には、何か私には分からない特別の資質があって、どう逆立ちしてもかないっこない」と信じ込んでいた。

医学博士号を取得したころ、当時京大医学部眼科学教室講師で、私の研究の指導にあたっておられた本田孔士先生(後、京都大学医学部教授)が、ドイツ留学を考えてみては、と言われた。医学研究はアメリカが一番主流なので、先輩の多くはアメリカへ留学していたが、私が音楽好きだからドイツに、と考えてくださったのだ。本田先生は付き合いの広い方で、世界中に親しい医学者がいたから、ドイツの研究所と交渉する事も可能だったのだ。

私にとっては夢のような話だった。早速、ドイツ政府のフンボルト奨学金に応募したところ、幸いにも合格し、ドイツに行けることになった。しかしその時点では、音楽の勉強をして転職しよう、というようなつもりは全くなく、ただ、大作曲家を数多く生んだドイツへのあこがれから、一時そこで暮らしてみたい、と思っただけであったので、京大病院での助手としての席は残したまま、休職してドイツに渡った。1980年の夏のことだ。

第1章

ドイツ行きの飛行機は格安の大韓航空で、パリ行き。パリで一泊して、電車でドイツに向かう、という予定だった。一人旅にしては大胆で、心細く思っていたが、飛行機のなかで、同じように安旅をしようという知り合いがすぐに出来、4人のグループになった。私以外はみな男性だった。うち一人は京大農学部の大学院生で、すでにフランス留学の経験があり、フランス語堪能だった。これは極めて有難い。フランス人は英語など理解しないか、理解してもしていないふりをするので、旅行者は途方にくれてしまう事が多いのだ。あとの3人はすっかり彼に頼りきって、パリについたらその晩のホテルを見つけてもらった。シングル・ルームは安いわりに清潔で広く、長く飛行機に乗ったあとでは、古い大きなバスタブが嬉しかった。

夕方には4人で映画館に行き、大島渚監督による「愛のコリーダ」の無修正版を見た。噂どおり凄いけれど、いやらしいという感じを我慢すれば、訴えたいことがある程度分かるような気がした。画面に大写しされた主演女優の口から「いいよう、いいよう、」という文句が洩らされている時、ちらとフランス語の字幕を見ると、「bon, bon,」となっている。単に「いい、いい、」というだけで、日本語の持つ風情は全くない。翻訳では、この程度にしか表現できないらしい。フランス人は気の毒に、映画の面白さが半減しているじゃないか、と、愉快であった。

このグループのうち一人、明らかに一番の年長者である人が、

「俺はアメリカで交通事故に遭うてなあ、かなりの重傷を負うたんやけど、たった1日だけ入院して、そのために150万円ばかり払って、すぐさま日本に送還されたんや。そのせいで、顔の一部が麻痺してしもたんや。」

と言うので、

「何で、そんなにすぐ、日本に帰らなくちゃいけなかったのですか。」

と一人が訊いたが、

「まあ、それには事情があってなあ、」

というだけで、口を噤んだ。この人と同じ部屋に泊まった京大生の話では、彼はもっといろいろ、胡散臭い事を話していたのだそうで、あれはスパイかなにかに違いない、とあとの3人で憶測し、私はこれから入っていく未知の世界の不気味さと面白さを半々に感じた。

私がドイツに着いて最初に行ったのは、バイエルン州、ミュンヘンから電車で約2時間走ったところにある、小さな湖のほとりのコッヒェルという村だ。ここのゲーテ・インスティテュートで最初の4ヶ月間ドイツ語を学ぶ、というのがフンボルト協会で決められた留学生としての任務だった。

その村にたどりつくのは、実はあまり簡単ではなかった。私は日本で半年ばかりドイツ語の勉強をしてあったから、初歩の文法は一応頭に入ってはいたが、会話となると、まるでちんぷんかんぷんだったので、日本で見た地図では虫眼鏡でやっと見つけたくらいの辺境の地、コッヒェルに、どうやって行くのかと、ミュンヘンで駅員などに尋ねても、とても理解出来ない説明が帰ってくるばかり。どうやら何処かで乗り換えないといけないようだ、とだけ分かった状態で電車に乗り込んだ。

一時間ほど走ったところで、電車は色とりどりに花が咲き乱れる湖畔の駅についた。ノイシュヴァンシュタイン城などメルヒェン風のお城をいっぱい建てたので有名な、狂気のルートヴィッヒ2世が亡くなった場所、シュタルンベルク湖だ。もしかしたら、このあたりで乗り換えかもしれないと思い、あわてて、周囲にいた人達に「コッヒェル、コッヒェル」と叫んでみせたら、一人のおばさんが「ここで降りて、あの電車にのりなさい」と教えてくれた。こういう親切な人はドイツではどこにでもいるもので、日本人がヨーロッパに来たら大抵感激する。日本人は一般的に、見知らぬ人とはかかわりあいたくないという傾向があって、同じ事を日本でやっても、みんなそっぽを向いてしまって誰も助けてくれない事が多いからだ。日本でやたらに多い痴漢がドイツにあまりいないのは、そのせいだと思う。被害者が声を出そうものなら、周りの人がすぐ応援にかけつけ、そんな破廉恥なまねをした者は、公衆の真ん中でさらし者になることうけあいだ。だから誰もそんな事をする気にならないのだ。

それはさておき、そうして乗り換えた電車では、私の隣に、若く理知的な感じの女の子が座っていた。片言で話し掛けたら、彼女もコッヒェルのゲーテ・インスティテュートに行くのだとわかり、すっかり安心した。彼女は私と違って、ドイツ語が既にペラペラだったからだ。フランス人で、エヴリンという名だった。

彼女のおかげで、夕方7時ごろ無事ゲーテ・インスティテュートに行き着いたが、そこで宿舎を紹介してもらうつもりだったのに、時間が遅すぎたらしく、閉まっていて誰一人いない。どうしたらいいかと訊こうにも、何分田舎町で通りかかる人もない。明日から授業が始まるというのに、何たるサービスの悪さだろう、と思ったが仕方がない。2人とも途方にくれた。しばらく考えた末、エヴリンは、今からユースホステルを探そう、と言う。地図で見ると、かなり遠いところに、確かにユースホステルは存在するらしいが、そこまで行ったとしても、部屋が空いているとは限らない。すぐ近くにこざっぱりした旅館が見えているのだが、彼女は、お金がないからそんな所には泊まれないと言う。ヨーロッパ人の学生は、必要最小限のお金しかもっていないという事が、この時わかった。しかし、私は重い荷物をかかえて、とてもユースホステルまで行ってみる気がせず、かといって「私はここに泊まりますから、さよなら」とも言いにくいので、

「貴方の分は払ってあげるから、ここに泊まろうよ。」

と彼女を説得し、その晩はその「ポスト旅館」に一緒に泊まった。

翌日から、ゲーテ・インスティテュートでドイツ語の勉強が始まった。まず、クラス分けの試験があった。簡単な筆記試験のみで、口頭試問は無かった。そしたら、私はいい点をとりすぎたらしく、かなり出来る人のための「中級」のクラスに入れられてしまい、エヴリンと同じクラスになった。こんなはずは無いが、とあわてふためきつつも、仕方なく授業を受け始めたら、案の定、さっぱり分からない。1時間目のあとで、先生に窮状を訴えた。同じ様に困っている人が、他にも何人かいた。先生は「あの試験は正確だから、貴方たちはよく出来るはずだ。もう少しここで続けてみてはどうですか」と引き止めにかかったが、私とアメリカ人のキャシーの二人は断固頑張って、一段階下のクラスに変えてもらった。

新しく私が入ったクラスは、ドイツの大学で勉強するための必須条件とされる、語学検定試験の準備を目的としたクラスで、全部で20人あまり、フランス人、イタリア人などのヨーロッパ人以外に、アメリカ人、トルコ人、ヨルダン人、さらにはパレスティナ人までいて、極めて国際色豊かだった。もう一人の日本人、市野君は私より1学年下で、何と、私が通った大阪府立天王寺高校と同学区内の住吉高校出身で、阪大出身の言わばお隣さん、まさに、世界は狭いという感じだった。

このクラスでの授業内容は、丁度私のドイツ語能力と合っていたらしく、勉強するのがとても楽しかった。私は、相変わらず喋るほうはあまり得意でなくて、ろくろく何も言わないのに、テストがあるといやにいい点をとるので、先生がみなの前で驚いてみせたりした。市野君は非常に勤勉で、いつのテストでも私よりさらにいい点をとっていた。アメリカ人やヨーロッパ人は、文法能力のさほど無い人でも、みなぺらぺら自由に喋れて羨ましかった。級友のドイツ語能力は総じて似たり寄ったりだったが、パレスティナ人だけは、文法を学ぶのがとても不得手のようで、落ちこぼれだった。

この期間住んでいたのは、50歳くらいの太ったおばさんの家で、トルコ人のナディヤと同居だった。彼女は私と同じくらいの年で、専門が何だったかは忘れたが、私と同様に博士の称号をもっていた。彼女は結婚していて、幼い娘を家においたまま一人でドイツ語の勉強に来ていた。トルコ人と知り合いになったのはこのナディヤが初めてだが、程なく、ドイツ語を勉強中のトルコ人はいっぱいいることが分かった。やがて後になってから、ドイツ中に非常に多くのトルコ人が出稼ぎに来ていて、ドイツにおける人種差別の主たる被害者になっていることが分かったが、この時はまだ、トルコ人というものが珍しく、興味津々でナディヤと話をした。

この家に初めてついた時、家主のおばさんが部屋の案内をしてくれたが、その際、風呂場で、「水はとても高いので、入浴は週一回にしてください。それ以上入浴したければ、1回につき5マルク支払うように。」と言われて、びっくりした。水が高いなんて、考えた事もなかったし、週一回の入浴とは、あんまりではないか。しかたないので、毎日、おばさんの留守を見計らっては、風呂場でクイック・シャワーを浴びることにした。

この家には家主のおばさん以外に、若いトルコ人で、太ってあまり教養の無さそうな男も住んでいて、私達は最初のころ彼を使用人だと思っていたのだが、そのうち、ナディヤが彼とトルコ語で話しているうちに、どうやら彼はおばさんのツバメらしい、と分かってきた。寝室を共にしているという事で、その不釣合いな感じに、私達は2人とも気持が悪くなった。

ある時、おばさんとツバメの男が2人で長期の旅行に出かけてしまった。3週間くらいだったと思う。夏にそういう長期旅行をするのは、ドイツでは非常に一般的で、それを楽しみに、あとの時期は働いてお金をためる、というのが普通のドイツ人の暮らし方なのだ。

ちょうどその旅行の直前に、この家の猫が子供を産んだのだが、私達はああしてくれ、こうしてくれといった指図を一切受けていなかったので、よその部屋に勝手に入る事も出来ず、放ってあった。しかしどうにも心配で、どうしよう、どうしよう、飢え死にした子猫の死体がそこら中にころがっているのじゃないか、と言い合った末に、ナディヤが一度猫のいる部屋をのぞいてみたら、予想通りに極めて汚くなっていたそうだが、仕方ないのでそれでも何もしないでいた。しばらくしたらおばさんの娘がどこかからやってきて掃除などしていたらしいが、ともかく、変な家だった。

ゲーテ・インスティテュートのホールにグランドピアノがあり、誰でも自由に弾かせてもらえた。音楽の勉強を目的に来ている人が数名いるから、アマチュアの私がいつもピアノを占領しているわけにはいかなかったが、それでも指がなまってしまわない程度には練習できた。ある時、ゲーテ内で学生の演奏会があり、私はシューマンのクライスレリアーナを独奏したのと、声楽を勉強に来たバリトンの岡部君の伴奏でセヴィリアの理髪師のアリアなどを弾いた。アメリカ人のピアノ学生もバッハの平均率を弾いたが、あまり目立った演奏ではなかったので、私は一躍ゲテ内での有名人になった。ジュードドイッチェツァイトウングという大新聞の地方版にその演奏会の批評がでて、私は初めて自分の演奏の批評というものを経験し、非常に嬉しかった。

ある時、級友のアメリカ人の女の子と、トルコ人のヤーチンが2人でどこかへ2日間ほど

授業をさぼって遊びに行った。女の子の方は特別優秀ではないピアノの学生で、容貌もぱ

っとしないが、ドイツ語はクラス中で一番に出来、やや高慢なので、同じアメリカ人のキ

ャシーなどは彼女を嫌っていたから、彼女がヤーチンとランデヴーしていた時にはさんざ

ん悪口を言っていた。ヤーチンは私と同じくフンボルト留学生で、ほかの級友よりはやや

年上、知的でなかなか素敵な男だったから、当時私たちのクラスを担当していた女の先生

のお気に入りで、特別扱いされていた。

演奏会の頃から、私に個人的なファンができた。韓国人のキム君だ。キムという苗字は韓国に非常に多く、韓国人の半分がキムさんじゃないか、と思うくらいなので、名前のほうで呼ぶべきところだが、ウェージュンという名前はとても発音しにくいので、私はキム君と呼ぶことにしていた。彼は別のクラスだったが、ドイツ語の能力は私と大体同じくらいだった。専門は森林学、フンボルトでもDAAD でもない、何かの奨学金で1年間の予定で来ていた。この奨学金は発展途上国用のもので、韓国はもう殆どあてはまらないのだけど、ぎりぎりの所でまだもらえているのだ、と言っていた。彼は非常に誠実な人柄で、たいしてハンサムではないし小柄だが、スポーツマン風にがっしりした体格だった。

キム君から、韓国人の間での話題を色々聞けた。韓国では兵役があるが、北朝鮮の侵略の危険に常にさらされているので、やむを得ない事であるとか、日本人が戦時中に韓国でやった色々な蛮行のために、日本人というのは、戦闘的でかつ卑劣な国民だと韓国人が思っている、という事などを彼から初めてきいた。平和ニッポンに慣れきっていた私には思いもよらない事だった。彼と色々、限られた語彙のなかで会話をしたことは、私の日常会話能力を高めるのに非常に役立った。

当初の予定では、私は4ヶ月間、ゲーテ・インスティテュートで語学ばかりやるはずだったのだが、2ヶ月たったところで、私の医学研究の指導者であるバート・ナウハイムのドット教授を訪ねたところ、それだけ喋れるならもう充分だ、はやく来なさい、と言われたので、その時点でゲーテは打ち切りにして、バート・ナウハイムのマックス・プランク研究所で医学研究を始めることにした。

キム君は、初めの予定通り、あと2ヶ月ゲーテに留まった。大学の夏休み期間にあたる最初の2ヶ月は、世界各国から学生が集まって来ていたので、若々しい雰囲気で、活気あふれていたのだが、秋になるとロシア人を中心とした出稼ぎ労働者が多くて、あまり面白くなかったのだそうだ。私が後半の2ヶ月を端折ったのは正解だったようだ。

第2章

バート・ナウハイムのマックス・プランク研究所では、研究所の建物の最上階にある客室に住んだ。小さい部屋だったが、天井が非常に高く、どれくらいの大きさだったのか、よく判断できない。日本の部屋と比べれば、そう小さくもなかったのかもしれない。客室は4部屋あって、その中ではともかく一番小さい部屋だった。台所と風呂場は共同だったが、全室が塞がっていることはめったに無く、大抵のときは私専用だったので、少しも困らなかった。

私とほぼ入れ替わりに日本に帰る金沢大学の吉田君(仮名)から古いアウディを譲り受けた。この車は、2500マルクと安かったから文句は言えないが、故障ばかりで費用がかさみ、どうしようもない車だった。アウトバーンの上で立ち往生し、緊急電話してADACという自動車クラブに助けに来てもらう、というようなことが何度もあった。その人たちが修理してくれるのを見ているうちに自分でもだんだん分かってきて、「あ、まただ」と思ったら路肩に停めて自分で緊急修理をし、また走り出したこともある。ともかく、「安全」とは言い難い車だった。

そのころドイツの北の端に近いキールで学会があり、吉田君と2人で行った。途中ハンブルグで、有名なレーパーバーンという赤線地帯を2人でたずねた。彼が、帰国までに一度は見ておきたい、というので、付き合ってあげたのだ。勿論、女性見物者の行くべきところではない。入り口のさび色に塗られた鉄門に、「女性入場お断り」と書いてあったのだが、そのドイツ語が理解できず、「女性が待っています」と書いてあるのだと勘違いしたので、平気で入っていった。ガラス窓の向こうにいる、色々にポーズをした娼婦の方々が、いやそうな目つきで私を見た。

その夜、ハンブルクのホテルで、私と吉田君は隣同士の部屋だったのだが、夜中に彼が私の部屋のドアをノックした。幸いにしてちゃんとカギをかけてあったので、

「ここ、カギかかってる?」

ときかれ、

「うん、ちゃんとかかってるから、心配してくれんでもええよ。」

と追い返したら、今度はヴェランダからやってきて、また

「ここも、ちゃんとカギかかってるんだ」

という。

「そうやよ、お休み」

とまた追い返した。同僚といっても、時には用心しないといけないものだ、と思った。

ドット教授のはからいで、私はブルガリア人のポポフと2人で共同研究を行うことになり、バンガーターフォリエというものを使って視覚誘発電位の研究をはじめた。被検者の視力をこの半透明の膜で段階的に落としつつ、脳波を記録して、客観的な視力測定に役立てよう、という計画だ。実験はナウハイムから40kmほど離れた、フランクフルト大学医学部の屋根裏にある、マックス・プランク研究所の出張所で行ったので、車で毎日フランクフルトに通った。片道40kmといったら長いようだが、大半はアウトバーンだし、日本のようなひどい渋滞に巻き込まれることはまれなので、通常30分しかかからなかった。

実験をはじめたら、そのうち、だんだんにポポフのやる事なすことに我慢ができなくなってきた。彼は教授に言われたとおりの事しか絶対にしようとせず、たとえ、実験結果が当初の見込みと違っていても、何故か、と疑問を持って実験をしなおすとか方法を変えてみるとかはしない。私が

「このままじゃ駄目だから、こうして見ませんか」

と提案しても、

「教授から聞いていない」

の一点張りである。すっかりあきれて、ドット教授に

「彼とはとても一緒に仕事できません、何とかしてください」

と訴えた。教授は、私の訴えを直ぐに聞きれてくださって、その後はエヴァという若いドイツ人と共同研究し、順調に進んだ。ポポフは私以外の研究所員からも嫌われ、すべての行動が共産圏出身らしく兵隊風にぎくしゃくしている、という理由から「鉛の兵隊さん」というあだ名がついていた。

研究所にはもう一人、矢島先生(仮名)という日本人がいた。彼はもと工学部出身でコンピューターにかなり詳しかったので、非常によく助けてもらった。この頃はまだコンピューターは一部の専門家のみのもので、医学だけ勉強した私にはもひとつ分けのわからないものだったから、トラブルがあるごとに助けが必要だったのだ。

バート・ナウハイムの研究所には古いアップライトピアノがあって、そこで毎晩練習した。ドット先生は歌がお好きで、シューベルトやシューマンの歌曲をよく伴奏してあげた。ハイ・バリトンで、声量はあまり無かったが、本当に心をこめて歌っておられた。それを生きがいにしておられる、という感じだった。

先生には2度目の結婚による奥さんとまだ小さい娘がいて、この娘を非常にかわいがっておられた。奥さんはドット先生と全く違い、派手で虚栄心の強そうな人で、研究所員はぺこぺこしながらも、実はみな陰で悪口を言っていた。もとの奥さんとの間の2人の息子はもう成人している。上の息子は父親同様に生理学をやっており、時折たずねて来ていたので何度か会ったことがあるが、下の息子は母親にべったりで父親を憎んでいるとの事だった。ドット先生自身はこの息子のことをとても心配しておられて、彼がやりたがっている映画監督の勉強ができるようにと、あれこれ尽力しておられたのみならず、ガールフレンドまで世話された。ずっと後になってからのことだが、私と親しかった日本人のソプラノ歌手がドット先生の頼みでこの息子と会い、しばらく付き合ったが、彼の自主性に欠けた、何でも父親のせいにする態度に腹を立て、そこそこで別れてしまった。

バート・ナウハイムでの研究生活が軌道に乗り出したころ、友達のキム君はフランクフルトから200kmばかり北のほう、カッセルに近い田舎にいて、週末にはよくフランクフルトにやってきた。電気生理学研究の被験者をすればいくらか時間給がもらえたし、彼の奨学金は低額だったので、アルバイトさせてあげるべく、彼を被験者にして「アジア人とヨーロッパ人の視機能の相違、電気生理的特色」とでも名づけるべき実験をした。すると、アジア人とヨーロッパ人では光の強さ、及びコントラストに対する眼の反応の仕方が全く違っている、という非常に面白い結果が出て、今考えてもバンガーターフォリエよりは有意義な研究だったのだが、発表はせずに留まってしまった。彼は8ヶ月間カッセル近郊に滞在したのち、韓国に帰国した。

フランクフルト大学には日本人の研究者が数人いて、金曜日の午後には、しばしば一番年長の渡辺さん(仮名)のところに集まって一緒にワインを飲んだ。その後はいつも、かなり酔っ払いつつ、自動車を運転してバート・ナウハイムに帰った。当時は、飲酒運転の取り締まりがあまり厳しくなかったのだ。

ある時、他の人が来られなくて、渡辺さんと2人だけで飲んだら、彼が酔ったはずみに、

「可愛いよ」

と言いつつ私に抱きついてきたので、あわてて逃げ出した。その後は、どうも彼は私に惚れてしまったのか、機会あるごと、たとえばエレヴェーターの中などで私に接近をはかってくるようになり、以後は、絶対2人きりにならないよう、気をつけた。

これより何年もたってからの事だが、いっぱい人が集まったパーティーの席で、渡辺さんはワインで酔っ払ってしまい、人前であることも忘れて私を追いかけて廻るので非常に恥ずかしい思いをした。ドイツ人は通常ワインの1杯や2杯ではまずそこまで酔っ払わない。日本人はそれに比べると非常にアルコールに弱くて、すぐに常軌を逸した行動をはじめる。何かアルコールを分解する酵素が足りないのだ、というのが通説になっている。ともかく、彼はそれほど悪気が無さそうなのだが、さかりがついた犬みたいな様子を人前でさらすので、どうにもいたたまれなかった。

ある夜、研究所の最上階にある自分の部屋にいたら、誰かがノックしたので、部屋のドアを開けたところ、隣の部屋にそのころ1週間ほど滞在していた台湾人の教授が「May Imake love with you?」と大きく書かれた紙を持って立っていた。ろくろく話もしたことないのに、一応医学者である私にむかって堂々とそんな事を言ってくるなんて、何と言う破廉恥な奴であろう。これなら惚れたはずみで私に襲いかかった渡辺さんのほうがまだましである。ノー、ノー、と言ったら、

「なぜ駄目なのだ?誰も知らないじゃないか。」

と言う。すぐさまピシャリとドアをしめ、カギをかけた。翌日出会ったが、別に恥じ入っている風でもなかった。あきれた人間もいるものだ。

千葉大学眼科の安達恵美子先生が、時折日本から来られ、バート・ナウハイムで実験をしておられたので、何度かお会いする機会があった。先生は非常に小柄ながら、美しく、鋭敏な方で、外国人の間で堂々と自分の意見を述べられるのが印象的で、私や同僚の憧れの的とでも言うべき存在だったのだが、その先生がある時、

「自分はイエローであるというコンプレックスをずっと持っている。」

と言われ、大変驚いた。多くのヨーロッパ人から尊敬の目で見られている先生にそんな劣等感があろうとは、思ってもみなかったからだ。私は先生よりちょうど10歳年下だが、そういったコンプレックスを感じた事は全くない。世代の相違が感覚の相違になるのだろうか。戦前生まれと、戦後生まれの差だろうか。それとも、小さい時にピアノを習ったカナダ人のシスターのおかげだろうか。先生は私がコンプレックスを持っていないことについて、羨ましい、とおっしゃっていた。

ドイツに来て1年足らずの頃、フンボルト留学生のためのドイツ一周バス旅行があった。3週間にわたり、25人くらいのグループで当時の西ドイツを廻った。このグループはフランクフルト近郊にいる留学生を集めたもので、学問分野は色々だった。日本人は私の他に、工学の白井さん(仮名)と、ドイツ文学の教授がいたが、このドイツ文学者はあまりドイツ語を喋れないので、他の人に陰で馬鹿にされていた。余談であるが、独和辞典の著者として有名なさるドイツ語学者もドイツ語が全く喋れず、初めてドイツに来た際、あまりのことにショックを受けてずっとホテルに閉じこもりきりだった、という話を聞いた事がある。実に滑稽で信じがたいが、このドイツ文学者の様子を見れば、頷けないこともない。白井さんは穏やかで親切な人で、この旅行中よく一緒に歩いたが、ずっと後になって、日本に帰国後、某大学の教授になられた直後に自殺されたそうだ。それを聞いたときには、あんないい人が何故、と驚愕し、非常に悲しかった。

日本人以外の参加者と言えば、まず、ただ一人のもとからの知り合い、ゲーテ・インスティテュートで一緒だったトルコ人のヤーチンが、非常に美しい奥さんをつれて来ていた。この旅行は、配偶者も参加できたのだ。ゲーテでブスのアメリカ人をガールフレンドにしていたことについては、忘れたふりをしてあげたが、彼は最初私の顔を見たとき、かなりきまり悪そうな様子をしていた。あと、ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ブルガリア、ソ連など共産圏からの人と、インド、中国、イギリスなどの人がいた。

共産圏と一口に言っても、国によって国民性が非常に異なっていて、例えばポーランド人とブルガリア人は最初から反目していたりして、興味深かった。国民の大半がカトリック信者であるポーランドでは、宗教を弾圧する共産政府を国民が憎んでおり、一方ブルガリアでは国民がおおむね共産主義の信奉者なのだ。

私がバスに乗車したのはバート・ナウハイムの北にあるギーセンという街だった。そこへ行く電車が遅れたために、電車の駅からバスの待っている場所まで、よく知らないギーセンの街中を大慌てで駆け抜け、待ち合わせ時間に10分ばかり遅れて、幸いまだ待っていたバスに大汗かきつつ飛び乗ったら、もう既にあとの全員は席についていた。

ギーセンから北に進み、ブラウンシュヴァイクでフォルクスワーゲンの工場を見学した。

工場は広々として清潔、働いている人たちはえらくリラックスした感じで、私がそれまで持っていた「工場労働者」のイメージとは全く違っていた。技術責任者の説明会があり、私はあまり関心がなかったが、機械工学の専門家らしいブルガリアのワーニャ(女性)などは、熱心に議論していた。

そこから一路東に、ベルリンへと向かった。西ベルリンは当時共産圏東ドイツの中にあり、たった一ヶ所西に属する陸上の孤島だったので、ブラウンシュヴァイクを出てしばらくしたら、東西ドイツの国境を通過した。

国境では、ものものしい制服に身を固めた、東ドイツ国境警備隊による厳格な車内の取調べがあり、西ドイツの新聞は全部取り上げられ、写真撮影は禁止、カセットテープも見つかれば取り上げられた。東ドイツ内では一切車外に出ることは許されず、極めて殺風景な灰色の風景を見ながら、数時間走って西ベルリンについた。すると目の前に、嘘のように、急に華やかな大都会が開けた。

ここで2日間滞在したが、その間に、日帰り観光ビザをもらって、「ベルリンの壁」を通過し、東ドイツの首都である東ベルリンを散策する機会があった。第二次世界大戦前、ドイツの首都だったベルリンの中心地は大方、東ベルリンの側にあるから、経済的に落ちぶれ_ているとは言え、東ベルリンの雰囲気は格調の高いものだった。お腹がすいてきてあたりを見回してみたが、立派なレストランなど見当たらないので、みすぼらしいキオスクのような所でタルタルステーキを買って食べたら、ものすごく安いわりには美味しかった。

東西ベルリンを駆け足でめぐったあと、バスでまた同じコースを逆戻りして西ドイツに帰り着き、そこから北にむかって、ハンブルグ、リューベックまで行き、今度は西よりに南下して、トリアーの近くでモーゼルワインの試飲会をした後、南ドイツのフライブルク、ボーデン湖、フュッセン、ミュンヒェンをめぐり、そこから北上してニュルンベルク、ビュルツブルグをたずねて廻るという、素晴らしく盛りだくさんの旅行だった。

フライブルクの宿にピアノがあったので、ポーランド人の哲学者スワヴェックの提案で、その日の夕方、私のコンサートをすることになり、シューマンのクライスレリアーナとプロコフィエフの束の間の幻影を演奏した。

ミュンヘンでは、夕方に演奏会を聴こうと、旅行仲間と2人でキュヴィリエ・シアターの切符売り場で並んでいたら、通りかかった年配の女性が、「一緒に来なさい、券があまっているから」と手招きする。有り難くついて行ったら、無料でヨーゼフ・スークの率いる室内合奏団の素晴らしいコンサートを聴くことができた。

この旅行の間に、ポーランド人の数学者でヴァイオリンを弾くアンナと、イギリス人民俗学者でチェロを弾くアダムが、一緒に弾かないか、と提案してきたので、旅行のあと、彼らとトリオを一緒に演奏するようになり、バート・ナウハイムの研究所か、もしくはアンナのいるダルムシュタットで練習した。彼女の住んでいる家にピアノがあったからだ。ある時はフランクフルト大学の講堂で演奏会を開き、旅行グループのメンバーを招待して同窓会のように集まったし、ボンでフンボルト留学生全体の集まりがあった時、そこでも演奏したことがある。もっともアンナはリズム感が悪く、始終勘定を間違えるので、三人で一緒に弾けるのはリズムの簡単なバロックの曲だけだった。「私がなぜ勘定できないのか分かる?数学者だからよ。」と言っていた。数学者は、1、2、3、といった簡単な勘定も、つい、複雑なやり方をしては、間違ってしまうのだそうだ。

この頃に、ドット先生のはからいで、先生の別荘のある、クラインホイバッハという北バイエルンの小さな町で、リサイタルを開くことになった。ロミー・カルプというソプラノ歌手と一緒に、ピアノソロ半分、歌半分、というコンサートで、ソロの曲目はショパンの「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」及びラヴェルの「夜のガスパール」、歌はマヌエル・ド・ファリャの「スペインの世俗的な歌」だった。歌の伴奏も私がした。

ロミーは、ずっと年上の非常に太った女性で、今まで聴いた事がないくらい特別な美しい声の持ち主だった。しかしややアル中の気があるのか、リハーサルの際、しばしば、その地方の名産であるアヒルのように首が細くて下半分が丸い形のボトルに入ったフランケンワインをビンごと口にあててゴクリと飲み、

「ワインは喉にいい」

と、自分に言い聞かせるように言っているので、「ホントかしら」と疑いつつも、

「へえ、そうですか。」

と感心しているようなふりをしていた。演奏会に先立ち、ロミーが

「人前で弾く前に、一度、知り合いのピアノの教授に聴いてもらってはどうですか」

というので、それはいい考えだと思い、彼女に頼んでフランクフルト音楽大学のフォルクマン教授に連絡をとってもらい、ピアノのレッスンを受けることにした。

電車でフォルクマン教授の家のあるクロンベルクの駅についたら、小雨の降る中、一つの傘の中に入った3人の小さな子供が寄ってきて、

「マリコさんですか」

ときく。お父さんに言われて迎えにきたのだ、という。何と暖かい雰囲気だろう、と嬉しくなった。

その暖かい雰囲気はそのまま、フォルクマン先生の授業の雰囲気であり、レッスンは本当に素晴らしかった。ピアノを習うとはこういう事か、と思った。習った曲はショパンのアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ。授業料は日本では考えられないくらいに安かったのだが、それでもとても申し訳なさそうに受け取られた。

レッスンのあと、また来てもいいかと聞いたら、承諾してくださったので、演奏会の直前にもう一度レッスンを受けにいった。二回目のレッスンの際には、前に教わった事を充分に自分のものにしていたので、先生は私の上達ぶりに感心されたらしく、

「ブラヴォー」

と褒めてくださった。

この演奏会はかなりの成功をおさめ、ドット教授は非常に喜んでくださった。またジュードドイッチェツアイトウングに大変良い新聞批評が出、私はとても嬉しくてこの新聞批評をフォルクマン先生に見ていただいた。

演奏会のあと間もなく、日本に帰ることになった。フンボルト奨学金は全部で2年間もらえるので、まだ8ヶ月分程残っていたが、全部をぶっ続けでもらうのでなく、一部残しておいて、再度渡独する際につかうのがいい、と、多くの人が考えていたので、私もそのやり方を選んだのだ。そうすれば、いつでも好きな時に、ビザの心配なく再び渡独できるからだ。

私はもうこの時、次に来た時には永住することになるかもしれない、と予感していた。

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