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演奏会裏話〜ピアニストの本音〜 第7−9話 (2000年頃執筆)

「振袖での演奏」

バイエルン州の都市、アシャッフェンブルクに古くからの友人のソプラノ歌手が住んでいる。彼女は私より10歳以上年上でその地方の名士であり、声の方はもうあまり出なくなっているが、しばしば自分で大衆受けのする企画を立て、知人の音楽家を雇って演奏会を主催している。そのおかげで私は何度も出番にありついているが、彼女の旦那さんが服飾関係の会社を経営していることもあり、彼女は服装に敏感である。

そして数年前より、日本人の私にもっとも似合うのは着物である、と確信していて、演奏の依頼の際には「着物を着て」という注文がついてくる。ここで「着物」というのは華々しい振袖のことであり、地味な付け下げなどではないので、私は恥知らずにも年齢にかかわらず毎回振袖を着て出演している。日本の伝統文化を西洋に誤って伝えている、とのお叱りを受けるかもしれないが、まあ、許して頂きたい。

さて、約1年前、彼女が主催したショー的な演奏会があり、大劇場で歌手、合唱団などを動員した総合的イベントに振袖で出演した。「この晴れやかな日のために、船に乗ってわざわざ日本からやってきたマリコさん」というエキゾチックな役割を演じるのである。

時折、お喋りをしたりピアノを弾いたりするように台本が出来上がっている。

日本から今着きました、こんにちは、と舞台に上がって最初に演奏したのが、事もあろうにショパンの英雄ポロネーズであった。事前に演奏会の模様がよく判っていなかったので、「何か華々しい曲をお願いします」と頼まれてこの曲に決めてしまったのだが、本当はもっと簡単な曲でもよかったのだ。華々しすぎだ。しかしもう、後の祭りである。

着物が窮屈だなあ、と思いつつ弾き始めた。振袖自体は長い袖を膝の上に載せておけば格別邪魔にはならないのだが、問題は太い帯である。きつく締め付けられているものだから座ったら血行不全に陥ったらしく、両腕が痺れてきた。これは大変だ、指が動かなくなったらどうしよう、と気が気ではない。それに、この曲には真ん中のあたりで長い左手の連続オクターブがある。腕の血行がよくなければ、あれは最後まで持たない。何とかこの締め付けを今のうちに緩めなくては。そう思って、弾きながら上体を必死で大きく揺り動かした。すると、胸を押さえつけている圧力がだんだんに低下して腕の痺れがとれ、問題の箇所に到るころには正常になって普通に演奏できた。やれやれ。しかし今度はひどい着崩れだ。演奏後、舞台上で人目につかぬよう修正するのに苦労した。

いつか、テレビで蝶々夫人を見ていたら、「ある晴れた日に」を歌う直前に、日本人のソプラノ歌手が帯をぎゅうっと押し下げているのを見たことがある。美しい着物はやはりかなり厄介な代物なのだ。

着物が窮屈で演奏しにくいことは上述したが、それでは、他国の民族衣装はどうであろうか。チマチョゴリは未だ試す機会が無いが、チャイナドレスは経験がある。あるとき、ライプチヒに住む胡弓の名手の中国人と知り合った。彼は北京で中国伝統楽器による交響楽団に属していたれっきとしたプロの音楽家であったが、いかなる事情によるものかドイツにやってきて以来、中華料理店を経営し、結構成功している。彼の店は「本物の、中国人による中華料理を食べさせる店」としてライプチヒでは有名だ。それというのも、ここにはベトナム人のやっている中華料理店が多いからだ。そして毎晩、自分の店で胡弓を演奏してそれを店のアトラクションにし、それでますます店は繁盛、というわけである。

この人とピアノと胡弓のデュオを組んで、何度もドイツ各地で演奏した。彼は、こんなにちゃちな楽器でどうしてここまで表現できるのだろう、と感心するくらいの名人である。演奏中は音楽そのものになりきっていて、悲しい曲だと本当に泣きながら弾いたりする。だから、巨大なグランドピアノとでも、音量さえ加減すれば見事に共演できるのだ。

もっとも、そういう組み合わせの曲は少ないし、また残念なことに、彼はレストラン経営の方に熱心のあまり、新しい曲を見つけて取り組もう、という意欲に欠ける。それゆえ、いつでも、どこへ行っても殆ど同じプログラムを弾いている。それでも、珍しさのおかげで、毎回大成功だ。そのつど、私はチャイナドレスを着て中国女性に扮装した。民族楽器による演奏会なのだから、それは妥当なことであろう。チャイナドレスはほっそりしているが、スカートの両脇に大きなスリットがあるから、窮屈でなく、演奏しやすいので気にいっていた。

ところがある時、誰かが私達の演奏中の写真を撮ってくれたのを見たら、ピアノに腰掛けている私のドレスはスリットが太腿のあたりまで大きく開いて、まったく赤面ものである。どうして誰もその事を私に言ってくれなかったのであろうか。あわてて次回にはスリットを20cmばかり縫い縮めた。すると、今度は窮屈になり、演奏中に、縫い縮めた糸がぷつぷつと音を立てて裂けた。演奏中にはペダルを踏んだりバランスを取ったりと、脚も結構大活躍しているからだ。それなのでチャイナドレスもピアノ演奏には格別向いていない、と言わねばなるまい

「演奏前にはコーヒーを飲みすぎない様に」

もう15年くらい前のことであるが、その頃一緒にピアノとチェロでデュオを組んでいたエジプト人のカーメルという男性と、ある小都市に招かれてデュオの曲ばかりの演奏会をした。カーメルはあまり練習熱心ではないが、才能に恵まれた優秀なチェリストである。

発展途上国出身の音楽家にはどちらかいうとこういうタイプが多い。例えばアルゲリッチがあまり勤勉でないことは有名である。

演奏会場でリハーサルをした後、演奏会までの待ち時間に、主催者である市長が私達を自宅に招き、コーヒーを出してくれた。ドイツ人は「コーヒーカンタータ」でうかがい知れるように、バッハの昔からコーヒーが大好きで、朝食時から夕食後に到るまで一日に何回も飲む。そのせいか大抵の人は中毒気味だ。非常に強いコーヒーを多量に飲むのが普通で、それでないと飲んだ気がしないらしい。私が通常自分で沸かすコーヒーなどは薄すぎて、大抵のドイツ人に「これは紅茶か?」と馬鹿にされてしまう。コーヒーの色は透けて見えるようでは駄目で、全く光を通さないくらいに濁って黒々としていなくてはいけないのだ。イギリスが紅茶の国なら、ドイツはコーヒーの国と言えよう。そう言えば、バッハがトーマス教会音楽長を長年務めたライプチヒには、ヨーロッパで一番古いコーヒーハウスのひとつとされるカフェー・バウムがある。そしてそこは今から170年も前に、かのローベルト・シューマンが常連で入り浸っていた所だ。シューマンもコーヒー中毒だったものと思われる。そのことが彼の狂気とどう関係があったかについては知るよしもないが。

それはともかく、この時いただいたコーヒーも非常に強く、カップ一杯飲んだだけで心臓がどきどきし始めた。とてもそれ以上は飲めないので、苦労して2杯目をお断りした。

しかしカーメルは勧められるままに、市長に付き合って2杯以上飲んでいる。それを見て、エジプト人は強いコーヒーを飲んでも平気なのだろうと思っていた。そして約30分後に、演奏会が始まった。室内楽の演奏会では、通常、ピアニストをふくめ、全員が楽譜を見ながら弾く。それには深い理由があるので、そのことについては次章にて詳しく述べる。楽譜があるのだから、ピアニストは立ち往生する心配が無くて安心、と思われるかもしれない。その通りではあるが、室内楽には、また別の難しさがある。例えば私のパートナーのカーメルなどは、その時その時の気分により演奏のやり方を変え、本番で突然に大きな「間」を取ったりするので、私はチェロの弾き方にすばやく反応し、自分も違った演奏で答える必要が生じる。これが室内楽の醍醐味であって、ピアニストは臨機応変でなければならない。その際、譜面がなくてはどうしようもないのだ。いつも全く同じ演奏をしてくれるのだったら話は別だけど、それでは面白味がないというものであろう。

デュオの演奏会の話に戻ろう。私はさほどの緊張も感じずにいくつかの曲を一緒に演奏したあと、ベンジャミン・ブリテンのチェロソナタになった。この曲は全部で5楽章あり、形式から言えばソナタというより組曲である。第2楽章のスケルツォを弾き終わった後、物悲しく静かなエレジーの出だしのピアノソロを弾こうとした途端に、カーメルが大音響で第4楽章の行進曲を弾きはじめた。第3楽章を弾き忘れたのだ。私は咄嗟にどうしたらいいのか分からず、呆然としていると、しばらく猛然と独奏を続けていたカーメルが弾くのをやめ、怪訝そうな顔を非難がましくこちらに向けた。「エレジー」と小声で言ったら、彼はやっと楽譜を2ページ一度にめくってしまった事に気付いた。しばし沈黙の後、しおしおとエレジーを弾き始めた。醜態をさらした後の文字通りのエレジー、哀歌であった。演奏会のあと、彼の第一言は「あのコーヒーは強かった!」だった。以来、私は演奏会の直前にはコーヒーを飲まないことにしている。多量のカフェインは、覚醒作用がある一方、正常な頭の働きを妨げることが明らかだ。これはネガティブに作用したドーピングといえよう。

言うまでも無く、人前で演奏するのは非常な精神的負担である。人前に出れば、だれでも上がる。これは緊張したらアドレナリンが全身に満ちる現象で、やむを得ない事だから、「上がった」状態でも大失敗をおこさないように演奏家は訓練を積むのだが、いくら訓練を積んでもやっぱり上がって失敗を繰り返し、心配でたまらない、その恐怖に耐えられない、という人を私は何人も知っている。

そこで、その恐怖を癒すべく密かに愛用されているのが精神安定剤である。ある時、某音楽大学のヴァイオリン教授に志願した友人に付き合って採用試験で伴奏した。彼はバッハのソロソナタ1曲とブラームスのヴァイオリン協奏曲を弾いたが、何とも精彩の無い演奏をしたので、当然ながら教授には採用されなかった。しばらく後で彼が「自分の演奏をどう思ったか」と聞いてきたから、正直に「なんだか退屈な演奏だった」と答えた。すると、「やっぱりそうか、実は自分は事前に精神安定剤を飲んだので、非常に落ち着いて演奏出来、うまくいったつもりだったのだ。それなのに演奏が良くなかったと審査員に言われて憤慨していた。きっと精神安定剤のせいに違いない。」と言う。この人は通常はとてもいいヴァイオリン二ストなので、本当に彼の言うとおりなのだろう。こういった向精神剤の恐ろしいところは、その効果の全容が本人には自覚できない事だ。落ち着きすぎてつまらない演奏をしているのに、「うまくいっている」つもりだったのだから。それゆえ、スポーツと違って禁止されてはいないけれども、いかなる形でもドーピングはなるたけ避けるべき、というのが私の考えである。

「譜めくりが全く無能だったら」

室内楽でも暗記で弾く人達が稀にはあるが、私はあれを邪道だと思っている。室内楽でのピアニストは、常に他のメンバーの演奏を譜面で追い、チェックしながら弾く必要がある。

いかに名手でも人間だから、間違う事はあるのだ。実際上、合奏中に相棒が落ちてしまって違った箇所から弾き始める、というようなハプニングはしばしばおこる。そういう場合には、聴衆に気付かれないよう、ピアニストは即座にそれに合わせてやらないといけない。

ピアニストにはそういう機能が要求され、その為に、ピアノ譜にだけは他の楽器の声部も書かれているのだ。

もっとも、デュオの場合は合わせるのは簡単であるが、トリオ、もしくはそれ以上の編成になると、なかなかに難しい。どの人に合わせるべきか、即座に判断しなければいけない。例えばピアノトリオで、ヴァイオリンが注意を怠ったためにいきなり1小節先を引き始め、チェロは正しい箇所を弾いていたとする。ヴァイオリンもチェロも自分の声部の譜面しか持っていないので、彼らには修正の仕様がない。ピアニストはヴァイオリンがどのように間違っているのか分かっていても、そこで「1小節待て」というような指示を、演奏しながら、しかも聴衆に気付かれないようにヴァイオリンに与えるのは至難の業である。殆ど不可能である。

ならば、どうしたらいいか。その時ヴァイオリンは伴奏をしていて、チェロの方が主旋律を受け持っているなら、そのまま、チェロと一緒に引き続け、ヴァイオリンがそのうち自分で気付いて戻ってくるのを待てばよい。しかし、もし、ヴァイオリンの方が大事なメロディーを弾いていて、チェロが伴奏だったとすれば、チェロを見捨ててヴァイオリンに合わせるしかない。それでなければ曲として繋がらないからだ。そして、確率的には、この方が高い。高音部に主旋律があるのが普通だからだ。あわれなチェリストは、そのうち自分だけ外れてしまったのに気付き、弾くのを止めて、わかり易くて一緒に弾き始められる所が来るまで待つしかないであろう。すると、聴衆の側からすれば、チェロだけが弾いていないので、あたかも彼が間違って落ちてしまったかのように見える。チェリストに無実の罪がかぶせられて気の毒ではあるが、時にはそれもいたしかたない。読者の中にも、トリオの演奏会でチェロが落ちているのを見たことのある人がおられるかもしれない。結構良く起こる事だ。あれは、必ずしもチェリストが間違ったとは限らない。ヴァイオリンのせいかもしれないのだ。

さて、何度か述べたように、室内楽では譜面が非常に大切であるが、自分で譜面をめくっていたのでは全部の音が弾けない。そのため演奏会の際には譜めくりを雇う必要があり、これがなかなか厄介である。譜めくりは、ただ譜面が読めるというだけではなく、ピアニストが譜面を追う速度にあわせ、常に一歩先でめくらないと演奏の妨げになる。必死で譜面ばかり追わないといけないから音楽を楽しむ余裕などないし、通常はギャラも出ない。それに譜めくりがいくら上手だからと言って拍手してもらえるものでもない。拍手してもらえるのは演奏家だけ、譜めくりは上手で当たり前、うまくいかなかったら非難される。これでは誰もあまりやりたがらないのは当然である。

知り合いの歌曲伴奏者は、演奏会の際には楽譜をマイクロフィルムなみに縮小コピーし、1曲のすべてのページを譜面台上に同時に乗せられるようにして、譜めくり問題を解決している。しかしこれは、歌曲が通常あまり長くないから可能なので、各楽章が数十ページにも及ぶ室内楽ではそうはいかない。

ある時、ドイツ最古という、由緒あるハイデルベルク大学のホールで室内楽の演奏会をした。曲目は、ピアノトリオ2曲と、シューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」。前半、ピアノトリオの演奏中には、最後の「鱒」にだけ出演するヴィオラ奏者が譜めくりをしてくれた。しかし「鱒」では5人全員出演する為、演奏者以外に譜めくりが必要で、事前から手配して「ヴァイオリンが弾けます、勿論楽譜はちゃんと読めます」というふれこみの女性

にお願いしてあった。

「鱒」の1楽章と2楽章は無事に終了し、3楽章のスケルツォになった。ここにはダ・カーポ(楽章の最初に戻る)があって数ページ逆もどりしないといけない。うまくいくかどうか心配で、事前に何度も念をおしたところ、譜めくり女史は「分かっています」と自信ありげに言っていた。それなのに、ダ・カーポの近くにきても、彼女は一向に腰をあげる気配がない。「うわっ、忘れているのじゃないか?」と思ったら、案の定、他の4人がもうダ・カーポして楽章の出だしを弾いているにもかかわらず、平気で何もしないで座っている。その間にテンポの速いスケルツォはどんどん先へ行く。私は暗譜でどうにかこうにか弾きながら「ダカーポ、ダカーポ」と叫んだ。すると、何と、彼女は譜面台から楽譜を取り上げてのろのろと探し始めるではないか。これ以上暗譜で引き続けられない。私は演奏を中断して楽譜を彼女の手から奪い返し、大至急、自分で楽章の最初のページをめくり、他のメンバーがその時までに行き着いていた箇所を探してそこから弾いて合流した。

私は彼女の無能さかげんにあきれ果てたが、彼女はどうやら自分の失敗にショックを受けたらしく、それからというもの、全く駄目になってしまった。思考停止した、とでもいうべきか、頭の中が真っ白になってしまったのであろう。4楽章の有名な「鱒」の変奏曲では、繰り返しのあるところですぐ次をめくってしまったり、めくるべき時に何もしなかったり、とめちゃめちゃで、邪魔になって仕方がない。

「私が自分でやりますから、触らないでください。」

と言ってそこから終わりまで全部自分でめくった。勿論、しばしば音を省かないといけなかったが、それでもこんな譜めくりがついているよりは余程ましである。

いつか、ある有名なピアニストがソロのリサイタルで譜面を見ながら弾いていた際、譜めくりが間違えると「違う、違う、」と会場中に響く大声で怒鳴るので、聴衆はびっくりして顔を見合わせ、

「暗記で弾くべきところなのに、あんなに譜めくりの人に怒鳴りつけるなんてひどい奴だ」

と言い合ったことがあるが、確かに譜めくりがあまりに下手だと演奏の非常な妨げになるので、彼は腹立ちのあまり、つい、我を忘れてしまったのであろう。

演奏会ごとに、上手な譜めくりを見つけるのは難しい。テクノロジーの発達した今日、「電子自動譜めくり器」でも発明してくれる人はいないものだろうか。

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