人間のテンポ感覚について
音楽における速さの感覚、特に演奏中の速さ、テンポの感覚はその時の体調というか、心拍数によって大きく変わるらしく、ドキドキしているときには落ち着いている時より速めのテンポで弾きたくなるのが普通です。たまに、この逆に、緊張するとゆっくりとなる人もいるようで、私のピアノの先生、フォルクマン教授がそうでしたが、これは明らかに少数派です。
ベートーヴェンは、演奏に夢中になるとどんどん速くなる癖があり、これを修正するべく同世代のメンツェルが発明したメトロノームを愛用した、との事です。これを聞いた時、同様の傾向のある私は大いに安心したものです。ロマン派の作曲家の中にはこの「だんだん速くなってしまう」習性を人間の自然な情緒の発露であり、いい事である、と考えた人もいたようで、たとえばメンデルスゾーンの「プレリュードとフーガ」では、だんだん速く、もっと速く、もっともっと速く、と不自然と思われるほどにアチェレランドが要求されている部分があります。「速くなってしまう」のを気にしている私などは、楽譜に記されているとおりに弾くと「ホントにこれでいいのかなあ?」と心配になってきます。心配しながらも、どんどん速く弾くしかないわけです。
私がフランクフルトで音大の学生をやっていたころ、つまり随分昔の事ですが、マウリツィオ・ポリーニがフランクフルトで演奏会を開き、その前に長時間にわたり音大の私の先生のレッスン室で練習していました。ポリーニがどのように練習するのか、はピアノ科の学生には大変興味あることですので、私たちは鈴なりになってレッスン室の扉に耳をくっつけていました。すると、何とメトロノームの音が聞こえます。彼は演奏会の当日に、メトロノームで練習していたのです!あの完璧な落ち着いた演奏は、メトロノームを使った練習の賜物だったのです!メトロノームについては、あんなものを多用すれば自然な感情表現ができなくなるとか、反対意見をしばしば耳にしますが、ポリーニのように弾きたいと思うなら、メトロノームは必需品。自分の演奏を録音して聴いてみるとよく分かりますが、自分の「つもり」と結果はしばしば大きく違っていて、ずっと同じテンポで弾いていたつもりが、あちこちで速くなったり遅くなったりして、びっくりする事が多い。だから客観的に、誰が聴いても満足できる演奏、プロフェッショナルな演奏をするためにはメトロノームが不可欠なのです。ともかく、ポリーニがメトロノームで練習していることを知ったのは大変に参考になりました。彼とて人間であって、あの完璧な演奏が簡単にできるわけではなく、メトロノームで散々に練習してこそ、なのでしょう。
さて、このメトロノームですが、多くの曲では、メトロノームによる速さが指定されています。しかし近代曲まではこれが相当にいい加減な値で、本当にその速さで弾くのは全く不可能であることも多い。この一番顕著な例がベートーヴェンのハンマークラヴィーア・ソナタです。1楽章でも4楽章でも、記されているメトロノームの速さで弾きとおすのは無理であるばかりか、表情も何もない、スピードスケートのような演奏になってしまいます。明らかに指定された速さが速過ぎるのです。そして不思議なことには、この「いい加減さ」はロマン派以降の作曲家にも受け継がれていて、例えばバルトークの作品のメトロノーム値など、たいてい信じられない速さで弾くように指定されており、「彼はメトロノームの数値を読む際に、錘の上ではなく、錘の下の数値を読んだ」という説があるくらいです。この説の真偽のほどはともかく、かようにメトロノームの数値はいい加減なので、私は常々レッスンの際に「楽譜に忠実であることの大切さ」を教えているにもかかわらず、「この速さを厳密に守る必要はありません、それを大体の目安とすればいいでしょう」と矛盾したことを言わなければいけない羽目に陥ります。
ところが現代曲になれば話は別です。現代曲ではメトロノーム数が指定されておればその通りに弾かなくてはならない(いつの時代からそうなったのか、についてはまだ研究しておりません)。私の友人にストックハウゼンを専門に演奏していたピアニストがいますが、彼女は、数小節ごとに少しだけメトロノーム数が変化するのをそのとおりに演奏すべく、メトロノームに噛り付きで長時間必死に練習していました。その通りにやらなければストックハウゼンに叱られ、あげくは見捨てられる、との事でした。私は彼女の練習ぶりを見て、「滅茶苦茶に弾いたとしても結果はあまり変わらないのに」と思い、また「こんな事は人間には出来ないがコンピューターだったら簡単にできそう」とも思って、自分は絶対にこんなバカバカしい事はするものか、と決心し、現代曲に積極的に取り組むのを止めてしまいました。ちなみに、ストックハウゼンが亡くなってからというもの、彼女の熱心さは急激に減少し、最近は主としてシューマンやショパンを弾いているようです。
それはともかく、現代曲では「自然な感情の動き」によるテンポのゆれ、などは許されません。ある時、私はチェロの学生を受け持っていましたが、この学生は作曲科の教授の息子で、自分でも作曲をしていました。そして卒業試験に自作の曲を弾くというので、その伴奏を私がしました。この曲は格別難しいわけではありませんでしたが、そこは現代曲ですから、完璧にテンポを保つ必要があります。ところが私は完璧にテンポを保つことはあまり得意ではありません。特に極めてゆっくりの部分では、いくら注意していても音の長さが時折変化してしまいます。すると、その学生は自分も演奏しながら「速くなった」「遅くなった」と、その都度指摘します。どうやら彼はメトロノームのように完璧な速度感の持ち主らしい。このような人は稀なので、かなり驚くとともに、自分の速度感覚の不完全さを認めざるを得ませんでした。彼はチェロ科を卒業後、作曲家に入学しましたが、そのうち見かけなくなりました。あとで聞いたところでは、彼は精神病を患って学業を中断し、家に引きこもって暮らしているとの事です。やっぱり、あのコンピューターのようなテンポ感覚はちょっと変だった、健康な普通の人間のものじゃなかった、と思わざるを得ませんでした。いくらか不完全であってこそ人間なのだ、と安心した次第です。