大音楽家の意外な側面
ドイツで音楽をやっていると、決して良い事ばかりではありませんが、たまには面白い経験をします。その一つは、雲の上の存在のような世界的名手の素顔にふれる機会がままあることです。
アンドラ―シュ・シフが譜めくりを怒鳴りつけて聴衆をあきれさせた話は以前に書きました。今回は、最近亡くなったある大指揮者について。これが誰であるか、は読んでいただければすぐに分かることですが、亡くなったばかりの人の陰口を名指しで書くのは少々はばかられるので、匿名にします。
この指揮者は、東ドイツの某オーケストラの主任指揮者として当時の東独の人たちの間で大変に親しまれていました。そして東西ドイツ再統一の際、無血革命が成功した陰で彼の果たした役割は非常に大きい。ここでそのことについて詳しく述べるつもりはありませんが、そういうわけで統一の後も彼はドイツで最も尊敬されている人物の一人として崇められていました。彼の指揮者としての技量を疑う人もあり、その理由として統一後間もなくの日本演奏旅行の際、評判があまり良くなかった事が挙げられますが、統一前、どん底に陥った東ドイツの経済状態とそれに伴う不自由な生活に見切りをつけて優秀な音楽家が多く西側へ逃げてしまったため、当時オーケストラ団員の技術的水準が著しく低下していた、という事実を考慮する必要があります。指揮者だけがいくら頑張っても、団員がそれに応える技量を備えていなければいい演奏ができるはずがありません。ですから当時の演奏が超一流とは言えなかったとしても、それを指揮者のせいにするのは不当だと思います。オーケストラの名誉のために付け加えれば、統一後しばらくしてから団員は全員新たに審査を受け、下手くそな人たちはクビになったので、現在は文句なしに一流のピカピカのオーケストラになっています。
さて、私がこれから書かせていただくのは、この国民的英雄のあまり英雄的ではない側面です。
ドイツのオーケストラは、しばしば音大の学生をトラ(アルバイトの臨時雇い)に使います。学生にとっては、トラとして働くのは小遣い稼ぎだけではなく、将来オーケストラに正式に雇ってもらうために必要な履歴にもなるので、オーケストラ楽器をやっている学生はみなトラになりたい。それなので、定期的に学生用のトラ採用試験があります。
ある時、このトラ試験に私が受け持っているヴァイオリンの学生が応募しました。この学生はかなりの劣等生だったので、一流オーケストラのトラになどなれる訳がないのは誰の眼にも明らかでしたが、応募は本人の自由ですから、ヴァイオリンの先生を始め、誰も止めようとはしませんでした。そしたら案の定、結構な悲劇が待っていました。
オーケストラ用の大ホールで、彼は私の伴奏でメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の一楽章を演奏し始めました。演奏が中断され(そのこと自体はそういう試験なら普通の事です)、驚いたことには大指揮者本人が舞台に近づいて来て、学生に訊きました。「君は(音大の)入試を受けましたか?」。学生が「はい、受けました」と答えると、「合格しましたか?」、これにも「はい」。すると、「それは驚き桃の木山椒の木だ!」と言うではありませんか(勿論これは意訳で、本当に言った言葉は「Donnerwetter, 雷だ!」、ひどく驚いた場合に使う俗語)。私は耳を疑いました。そこまで言わなくてもいいじゃありませんか。普通に「御苦労さまでした、サヨナラ!」と言っておけば済むことなのに、天下の大指揮者にそんなに罵倒、嘲笑されては、私だったら生きておれない、と思いました。幸い、この学生は少々鈍感で、一体何を言われているのかすぐには分からなかったらしく、ポカンとしていましたが、後で聞いた話では、彼はその後ヴァイオリンを諦めて修道士になったそうです。佛教でいうなら、世を儚んで出家した、というわけです。これが悲劇でなくて何でしょう。まあ、音楽家の道の厳しさを考えれば、最終的にはそのほうが彼にとって良かったかもしれませんが。
この出来事は私にとってもかなりショックで、確かにこの指揮者は一般的に尊敬されていて、大人物であるには違いないけれど、好きになれない人だ、という印象を持ってしまいました。
あの日、彼はよほど虫の居所が悪かったのでしょうか。