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風変わりドイツ留学記 〜医師がピアニストになった経緯 第3-4章 (これは1990年代に書かれたものを再掲載しています)

第3章

日本では再び京大医学部眼科学教室での助手生活になった。私の所属する電気生理の研究室には、本田先生のもと、ドイツに行く前からいた根木君と河野君がいて、また電顕の研究室には友人の松村美代さんがいて和気藹々としていたし、その他にも眼科研究室の住人は数が増え、活気に満ちていて、眼科研究棟の老朽してお化けの出てきそうな雰囲気にもかかわらず、そこでの毎日は楽しかった。

しかし臨床のほうは、手術を長くやっていない間に、他の人たちは進歩を遂げていて、私はひどく取り残されていたので、あわてた。白内障手術は、このころ画期的な進歩を遂げ、眼内レンズの挿入を可能にする嚢外摘出術が主流になり、それまで行われていた嚢内摘出術は、殆ど行われなくなっていたが、私が習ったのは嚢内摘出術だった為、技術的には遥かに難しい嚢外摘出術を新たに学ばないといけなくなったのだ。それで、後輩の石剛岡君に頼んで、週に一回アルバイト医として派遣されていた某病院で、教えてもらったりした。

京大病院では、既に助手である者が、研修医のように一から教えてもらうわけにはいかなかったからだ。しかし、技術的なギャップはかなり大きく、そう簡単に取り戻せそうではなかった。

フォルクマン教授の授業の素晴らしさは忘れ難く、どうかして彼のもとでじっくり学びたいものだ、という考えが、ずっと頭のなかにあった。フランクフルトの音大に入ってはどうだろう、先生があんなに感心してくださったのだから、もしかしたら可能かもしれない、と思い、「先生のもとでピアノを学びたい、そのためには、医学を中断してもいいと思っている。」という内容の手紙を書いた。

すると返事が来て、「貴方のピアノの腕は確かに素晴らしい、ピアノを弾く医者、としては間違いなく世界一だろうと思うけれど、音楽の世界は競争があまりにも激しく、医者のような立派な職業を持つ人におすすめできるものではない。しかし、それでもいい、というなら、自分は止めない」と書いてあった。小さい時から、本当にやりたかったことを試してみる、二度とは来ないチャンスだ。医者としての自分に100パーセントの自信を持てない今、音楽でどこまで出来るか、それにかけてみよう、と決心した。

この年の祇園祭の宵山に、丁度留学して京大眼科に来ておられた中国人の先生を案内し、同僚と連れ立ってでかけた。祇園祭は、いつも暑い盛りで、人ごみの中で大変な思いをするから、大学一年生の時以来、行ったことがなく、また行きたいとも思わなかったのだが、

「もしかしたら、もう今後見られないかもしれない」と思うと、その、日本ならでは、京都ならでは、の雰囲気に感無量だった。それまで気にもとめず、あたりまえだと思っていた、こういった行事が、とても素晴らしいものに思えた。

そして1年後、京大病院を退職し、再度ドイツに渡った。

第4章

ドット教授に、フンボルト奨学生としての期間が済み次第、音楽を勉強するつもりであることを告げたところ、「貴方はとても勇敢な人だ」と言われ、協力を約束してくださった。

これはちょっと、日本では考えられない状況だ。今までさんざんにドイツの奨学金をつかって医学研究をやってきたのに、それを放り出すというのだから、「恩知らず」だと言われても仕方が無いところなのに、何と言う寛大さであろうか。私はかなり驚きつつも、彼の好意に甘えることにした。余談になるが、この時からかなり後、私がもう音楽学生をしていたころだと思うが、ドット先生のところに誰か医学関係の客が来ていた時、依頼されてピアノを弾いた。すると、ドット先生がその客に、

「これを聴けば、誰だって(私が医者を止めてピアニストになりたいと思う事が)理解できるではないか。」

と話されていたことがあった。そういうわけで、医学研究は続けながらも、音大の入試の準備にとりかかった。

フォルクマン先生と相談し、バッハの平均率から2巻の変ロ短調、ベートーヴェンのワルトシュタイン、ショパンの舟歌、それにストラヴィンスキーのペトルーシュカから終楽章、を準備することに決めた。ペトルーシュカは難しいので有名だが、以前日本でマックス・エッガー先生のレッスンの際に弾いたら、大変感心され、その日の授業料を受け取られなかった、というくらい得意な曲だ。

フォルクマン先生のレッスンはいつも素晴らしくて、バッハの弾き方など、目から鱗が落ちるようだった。的確なアドヴァイスはこれほどにも役に立つのかと驚くほど、短期間に上達し、先生の方も私の上達の速さにびっくりしておられたらしい。入試の準備を始めた最初のころは、他の音楽大学をかけもち受験するように、と言われていたのだが、入試が近づいてきたころには、「間違いなく合格するから心配いらない」と言われるようになった。

時にはアップライトでない、ちゃんとしたグランドピアノで練習できるようにと、音大の門衛さんに話をつけてくださったりもした。

そんな風に、実際的にも心理的にも助けてくださったので、緊張はしても非常に充実した気分で受験に望めた。試験時間は1人約20分で、最初に弾く曲は自分で選び、その後は審査員の言われるとおりに、弾いたり止めたりする、というのが試験のやり方だった。

私はバッハから弾き始めた。ホールのスタンウェイのコンサート・グランドは大変弾き易く、思い通りに音色の調節ができるので、緊張しているはずなのに弾いていて気持ちがよかった。大抵の人はすぐ途中で止められていたので、どこで切られるのだろう、と思いながら弾いていたが、平均率の中では一番長い曲のひとつなのに、フーガの終わりまで全部弾かされた。すると、「ああ、どうやらみな喜んで聴いてくれているようだ」と思い、緊張が一挙に解け、つぎのベートーヴェンは実にのびのびと弾けた。1楽章の提示部だけで止められたあと、先生方が

「次はどれにしよう、まだ『舟歌』と『ペトルーシュカ』があるが」

と相談されていたが、そのうち、一人の先生が(この人は後になって、有名なピアニストのホカンソンだと分かった)

「ペトルーシュカ」

と叫ばれた。それも終わりまで全部弾いた。他の人と比べると随分長い試験だったと思う。

弾き終わったあと、ホールの外に出たら、そこで待っている受験生の一人、韓国人らしい女の子が

「あんた、すごくうまいねえ」

と言ってくれた。しばらくしたら、フォルクマン先生が

「よくやった、よくやった」

と言いながら出てこられたので、

「あのー、試験の結果はどうなのでしょうか」

と聞いたら、

「何を言うのですか、勿論合格ですよ。」

とおっしゃった。審査員の一人だった別の若い先生も出てきて、

「grossartig!」(素晴らしかった)

と褒めてくださった。

ピアノ以外に、音楽理論の試験もあったが、これは事前に「この本で準備すること」と言われていたグラープナーの本をちゃんと読んであったから、とても簡単で問題なかった。

かくして、私は35歳という、異例に高齢なピアノ学生となった。この点では、私は極めて幸運だったのだ。ミュンヘンやケルン等、有名な音楽大学の多くは、厳しい年齢制限があったし、フランクフルトでも、年齢制限をつける話は当時進行中だったのだそうで、その翌年からは、30歳以下、という制限がつけられた。私は文字通り、滑り込んだのだ。

すぐさま、フォルクマン先生と相談して今後の予定を立て、まず、ブラームスの「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」を練習する、と決めた。

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