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風変わりドイツ留学記 〜医師がピアニストになった経緯 第5−6章 (これは1990年代に書かれたものを再掲載しています)

第5章

フランクフルト音大の学生になって最初の1年間は、ドット先生のはからいにより、マックスプランク研究所の奨学金を半分だけ貰い、週に3日研究を続け、あとの日は音楽に、ということにした。もっとも毎日夕方には練習できるわけだから、練習量はそれで充分だった。それ以降は奨学金が無くなったが、音大の授業料は外国人でもタダであり、また練習は音大で出来るので、フランクフルト近郊に住む日本人子女にピアノを教えるアルバイトをすれば何とかやっていけた。

今まで音楽学校に通ったことの無い私は、日本の大学で既に履修し、副科を免除される他の日本人留学生とちがって、音楽史、音楽理論、聴音といった科目もやらないといけなかったが、全て面白くて熱心に授業に出席した。聴音は絶対音感のある私にとっては非常に簡単なものだったが、音楽史はそうでもなく、一番前に座って、聞き取れるかぎりを必死でノートに書いた。音楽理論は、フォルクマン先生のはからいで、私だけは特別に、クラインという年取った作曲家の個人教授をうけた。ほかのピアノ科の学生は若い先生のもとで集団授業を受けていたから、私はかなり恵まれた待遇を受けたと言える。フーガの作曲法まで徹底的に習った。

しかし何と言っても一番面白かったのはピアノの授業だった。毎週レッスンを受ける事は子供の時以来なかったし、昔習っていた時でも、ひとつひとつの箇所が完璧に美しく響くようになるまで指使いを工夫し、困難な箇所の練習の仕方を教わって試みてみる、などといった徹底的な習い方をしたことはなかった。また、強弱、ルバートなど音楽的解釈についても、何故そうでないといけないか、と理論的に説明を受けた事は一度も無く、楽譜に明記されている事以外はすべて自分の感覚にたよって演奏していた。私の今までのピアノの先生は、最初がカナダ人のカトリックのシスターで、この方は自分ではあまりピアノを弾かれなかったが、幼児の手ほどきには非常に優れておられ、そのおかげか、私は譜面を読む苦労をしたことがなく、大抵の曲は初見で弾ける、という特殊技能を身につけた。この先生に中学生になるまで習い、次についた物部一郎先生は作曲家だったから、普通のピアノの先生には医学生になるまでついたことがなかった。医学生になってから、藤村るり子先生とマックス・エッガー先生に時折レッスンしていただいたが、その時も、自分で練習しておいた曲を聴いていただいて部分的に手直ししてもらう、というだけで、弾き方については特に教わった事がなかった。そういうわけで、私はこの時に至るまで「ピアノのテクニック」についてはろくろく習ったことがなく、殆どが自己流だったのだ。

ある日、レッスンの最中に、フォルクマン先生が私の弾いている手をじっと見つめながら、

「貴方の弾き方は実に変わっている。手首を全く使わないで、指だけで弾いている。そんな間違った弾き方でも、才能があればちゃんと弾けるのだなあ。」

と感心するように言われた。

そう言えば、私は子供のころから手首の運動が苦手で、ボール投げなど、前向きに投げたつもりでも後ろ向きに飛んでしまうといった風だった。手首を動かす筋肉が先天的に一部欠けている、としか思えなかった。それでも一応ちゃんとピアノが弾けるのは、小さい頃からいつも非常に難しい曲を弾きたくて、何とか弾けるようにと自分で工夫をこらし、他の筋肉の運動でカバーする方法を身につけていたからに違いない。そういう変わった弾き方だから、通常のピアノの先生なら「こんな弾き方ではだめです」と、それを矯正する練習ばかりやらされ、そのためピアノを弾く喜びが無くなってしまったかもしれないが、幸い、私の昔の先生方はピアノのテクニックについて関心の無い人達だったから、自分のやり方で通ってきたのだと思う。

フォルクマン先生が

「貴方の指の動きはたいしたものだが、少しは手首の動きで指を助けることが出来たら、もっと楽になるだろう。ちょっとこうやって動かしてみなさい」

と両手首をブラブラっと速く回転してみせられたので、私も真似てやってみた。すると、ゆっくりしか出来ない。先生の半分くらいの速度だ。

「え、そんなにゆっくりしか出来ないのか。」

と驚いておられるところへ、丁度門衛さんが何かの用事で入ってきた。

「君、ちょっと見てみなさい。私の手の動きと、彼女の手の動きと、どう違うかね。」

と聞かれると、門衛さんは、

「はい、教授の手の動きの方がずっと速いです。」

と、さすがは教授、と感心しているように答えたので、私と先生は大笑いした。

このように、先生に技術上の欠点を指摘されても、それでもって全体を否定される事は無いので、意気消沈しないで練習に励むことができた。私の手首の欠点は、完全に直りはしなかったが、それを知って意識的に演奏法を工夫することにより、多くの技術的問題点を解決できた。こういう事は、ある程度年を取った者はよく心得ておくべき事だ。子供のときと違って、35歳とまでいかなくても、もう体の出来上がっている大人が、しゃにむに練習したからといって、それまで出来なかったことを何でも出来るようになるものではない。それをよく弁えずに無理な練習を続ければ、指を壊した為にピアニストになるのを諦めないといけなかったロベルト・シューマンのように、不可逆的な損傷をきたす恐れがある。現に、そういう人達を私は何人も知っている。シューマンには作曲の才があったから、彼の指の故障は後世の人々には幸いだったと言えようが、大抵の場合は、それがもとで音楽の道を諦めないといけなくなってしまう。本当にいい先生は、音楽的な面を教えるのは勿論のこと、技術的な面では、生徒一人一人の特性を掴み、それにあわせた教え方をしてくれるものだ、という事がフォルクマン先生の授業でわかった。

前に述べたように、私のそれまでの演奏は殆どが自己流だったから、そう言う風に教わるのが不思議な気分で、自分は競馬ウマで、先生は調教師であるような気がした。速く走れるかどうかは、ウマの先天的な素質にかかっているが、そのウマの素質を充分に引き出すのは調教師だからだ。

ブラームスのピアノ曲は今までとっつきにくかったのだが、こうして習ったおかげで大好きになり、「ヘンデル変奏曲」は私の最重要レパートリーのひとつになった。この年の秋に学内演奏会でこれを演奏したところ、大成功を収め、フランクフルター・アルゲマイネという新聞でも好評を得た。この時、同じ演奏会に出ていたもう一人のピアノ学生のバルバラは、シューマンのソナタで酷評され、「ブラームスとでは天と地の違い」とまで書かれていたので、なんと気の毒に、さぞ気分が悪かろう、と思っていたら、次に会ったとき

「貴方の演奏は本当に素晴らしかった」

と心から褒めてくれたので、彼女の人柄のよさに感心した。日本ではあまりそんな経験をしたことがない。人前で上手く弾いたら、誰か彼かに妬まれていやな思いをする事が多かったように思う。

このあとにも何回か、ドイツ人の心のひろさ、というか、他人の長所を妬まずに素直に認めることができる、という美点を見る機会があった。その一例だが、ブラームスを弾いてしばらくした頃、フォルクマン先生が作曲された「童謡を主題とした変奏曲」の演奏会があり、そのソリストに選ばれた。この「変奏曲」はバロックから現代にいたる色んな作曲家のスタイルをまねて作った非常に大掛かりなもので、ピアノソロ、ピアノ伴奏つき歌曲のみならず、例えばショパンやリスト、ドビュッシー、バルトークなどはオーケストラつきの協奏曲として作曲され、効果万点、非常に面白いものであった。4回にわたって色んな大会場で演奏され、聴衆も総計すれば数千人に至った。当然、このピアノは誰でもやりたかったに違いない。後になって分かったことだが、実は私より早くから、同僚で1年先輩にあたるマティアス・フックスが練習していたのだが、私のほうが向いている、と先生が判断されたので私にまわってきたのだ。マティアスは非常に優秀なピアニストだったし、腹をたてても不思議はないのだが、彼は終始極めて友好的で、妬むというような素振りは全く無かった。ある時学内演奏会で彼が演奏したショパンの24のプレリュードは、私がそれまで聴いたこともないくらい完璧でしかも情感のあふれたものだったので、なぜ、私が彼に取って代わることができたのか不思議だった。

音大ではその後、ベートーヴェンのピアノ協奏曲を5曲全部習い、シューマンの謝肉祭、幻想曲、ショパンのポロネーズ、バラード、ソナタなどなど、クラシックとロマン派を中心に数え切れない曲目でレッスンを受け、私のレパートリーは確実に大きくなっていった。

ただし先生は現代曲がお好きでなく、そんなものをレッスンに持って行っても、ただ聴いてもらうだけでさほど勉強にならないので、あまりやらなかった。

ある時、

「ラヴェルの夜のガスパールを弾いてもいいですか」

と聞くと、

「勿論いいですよ、やりなさい」

と言われたので、次の週に持っていった。これは先生の得意分野ではなかったはずだが、レッスンの前に部屋の外で耳をすますと、中から一楽章の「オンディーヌ」が実に美しく聞こえてくる。どうしたことか、他の人はこの曲をやっていなかったと思うのに、と部屋を覗いたら、先生が自分で弾いておられた。充分な授業ができるように、と練習しておられたのだ。全く先生の鑑のような方だった。

音大に入ってしばらくしたころ、先生が

「ヴァイオリンの学生が伴奏者を探している。一緒に弾いてみては」

と、エジプト人の優秀な学生、バスマを紹介してくださったので、彼女と一緒にバルトークのラプソディー2番を練習し、ヴァイオリンの授業に一緒に行き、学内のコンサートで演奏した。

それからしばらくして、音楽史の授業を一緒に受けていたチューバの学生、ベルンハルトが、リヒアルト・シュトラウスのホルン協奏曲を伴奏してくれないか、と私にきいてきた。

面白そうだからすぐオーケーし、一緒に練習した。チューバはホルンより音域が低いので、オリジナルより1オクターブ低い演奏だ。2人で室内楽のライナー・ホフマン教授のレッスンを受けに行った。

このころ室内楽はピアノ科学生の必修科目ではなく、やるかやらないかは学生の自由意志にまかされていて、ホフマン教授のレッスンを受けたいグループがあれば、直接頼みに行ってレッスンの日取りをきめていた。その弊害で、ピアノ科の学生の中には、ソロだけで手一杯だから、と一切室内楽をやらず、卒業試験の直前になってから、その試験に必要な最小限度、1曲だけをこなす、という人が結構沢山いた。そのため、ピアノ以外の楽器の学生は、伴奏者を見つけるのに四苦八苦していた。トランペットの先生が

「伴奏者が欲しかったらピアノ科に彼女を見つけるのだ、それしか手は無い」

と言っていたことがある。

ホフマン教授に初めて会ったのは、このようにチューバによるシュトラウスのホルン協奏曲の伴奏をした時だったが、先生は最初から大変私のことを気にいってくださった。今まで京大音楽研究会などでさんざんに伴奏していて、人に合わせて弾くのが得意だったからだろう。

「年は」

ときかれたので、

「年とっているのです。35です」

と答えたら、

「35歳の人が20歳の人のような演奏をすれば年とっていることになるけれど、35歳の演奏をするのだったら問題無いです。」

と言われた。

チューバによるホルン協奏曲はかなりの成功をおさめ、学内、学外で演奏会に出たのみならず、フランクフルト音大の代表としてラジオにも出演した。余談になるが、このとき一緒に弾いたベルンハルトは、なかなかハンサムで体格もよく、真面目ないい青年だったのだが、卒業後あるキリスト教のセクトに属する女性と結婚してその集団に加わり、一般社会から逃避した生活を始めて、チューバはやめてしまったのだそうだ。

私は人と共演するのが好きだったし、頼まれればすぐホイホイと伴奏したので、瞬く間に学校中で知れ渡ったらしく、次々と依頼がきて、そのたびにホフマン先生の所に行ったから、時には同じ日に何回も相手を変えて授業に行ったこともあり、先生に

「君は連続演奏者だねえ」

と笑われた。先生には、室内楽、歌曲伴奏、それにホルン協奏曲のようなオーケストラ・パートの演奏まで、非常に多くの分野で習うことができた。

日本人学生2人と一緒にブラームスのホルン・トリオを練習し、レッスンに持っていったことがある。そしたら先生は、

「あとの2人(ヴァイオリンとホルン)はマリコを真似て弾くように。日本人は、自分の知っている限り、ロマン派音楽を感覚的には理解できないのだが、マリコだけは別だ。何故だかわからない。」

とおっしゃった。

ある時、音楽教育課程で勉強している、あまり優秀ではないが、人付き合いがよくて人気のあるミヒャエルが、

「マリコ、喜び(ドイツ語でフロイデ)を得たかったら、ボクに言ってくれたまえ。」

と言う。私はさっぱり訳がわからず、友人で京都出身のオルガン科の真奈さんに、

「彼が、こんな事言うてるけど、どーいう意味やと思う?」

と聞いた。

「なんやそれ?」

と彼女も言って2人で顔を見合わせているうちに、両方とも同じ考えにいきあたった。大笑いして、それ以来、彼に「フロイデマン」というあだ名をつけた。ずっと年上の私にそんな提案をしてくるのは、きっと若く見られているからだ、と気をよくし、彼には

「ちゃんとボーイフレンドがいますから」

と鄭重にお断りした。

たいていのピアノコンクールには28歳以下とか30歳以下とかの年齢制限があって、私は参加できなかったが、ある時、学校でスペインのハエンという所であるコンクールのパンフレットを見つけ、年齢制限については書いてなかったので、受けることにした。ワルトシュタイン、ヘンデル変奏曲、夜のガスパール、ペトルーシュカといった得意の曲目の他に、ショパンのエチュード2曲、規定されていたアルベニスの「イベリア」から1曲を選んだ。

準備万端ととのえて、コンクールに臨み、一次審査ではペトルーシュカを弾いてクリアーした。2次はクラシックのソナタを弾かねばならないが、これはドイツものだから、強いつもりだった。ところが、自分としては満足な演奏をしたにもかかわらず、何故だか、私から見たらソナタの弾き方としては邪道だと思えるような演奏をしたフランス人、スペイン人といった人達が本選に進み、自分自身は落ちてしまったので、そんなばかな、と怒りのあまり、夜中に激しい腹痛になって、同じ部屋に寝ていたドイツ人に「正露丸」をもらって呑む羽目になった(このドイツ人の夫が日本人で、彼女は正露丸を持ち歩いていたのだ)。国際コンクールでは、こういった「好みのちがい」がよくあるものだ、とはもっと後になってから分かったが、この時はひたすら腹がたっていた。

コンクールのあと、マドリッドにでて、街をぶらぶら歩き回っていたら、向こうから、長らく会っていなかった弟の俊児と奥さんの有理さんが赤ん坊の長男、幸太郎の乳母車を押しながらやってくるのに出会って、びっくり仰天した。当時アメリカ留学中だった眼科医の弟が、このころにスペインで学会に出席する、と聞いてはいたが、この日に落ち合う約束などしていなかったし、マドリッドでばったり出会うなんて、まったく世界は狭いものだ。一緒に弟たちの滞在しているホテルへ行って、コンクールでの鬱憤をぶちまけた所、弟が、

「まあ、一次に合格したというんやから、(国際コンクールを)受けられへん程下手やない、という事やな」

と言うので、それもそうだ、それが分かっただけでもいいや、と思うことにした。

このしばらく後で、オーストリアのザルツブルクでモーツアルト・コンクールに出る機会があった。何故だか、参加資格に年齢制限がついていなかった。1次はケッフェル300台の中期のソナタとバッハの平均率、2次は後期のソナタとショパンのエチュード、3次は前期のソナタ、決勝はピアノコンチェルト、という規定だった。

参加者は60人くらいで、その内約3分の一が日本人、あと韓国人も多くいたから、全体の半分は東洋人だった。

このコンクールは、そもそも最初から変だった。会場についたら、いたる所で、日本人のグループが金魚のうんこみたいに審査員について歩いているのが見かけられたのだ。なんだか一昔前の日本のような感じだった。

一次審査は2日にわたって行われ、私の出番はおおよそ真ん中、2日目の最初から2番目だった。1日目は練習していたので会場には殆ど行かず、演奏を聴かなかったのだが、夕方、同じ部屋に泊まっている青木さんという人が、

「自分は絶対うまく弾いたのに落とされた。納得がいかない。選び方に不正があると思う。」

と言うので、

「それなら、明日、私が弾いたあとは、全部聴いて、自分達で採点して、結果とくらべてみようよ。」

と提案した。

彼女と、もう一人同じ部屋にいた韓国人の王さん(彼女は私の少し後で弾くことになっていた)と3人で、翌日、一次審査の後半は、自分達の出番が終わったら会場に座って全部聴き、採点した。

私の演奏は自分としては満足な出来だったし、青木さんも

「素晴らしかった、おめでとう。」

と褒めてくれた。しばらく後で、ある日本人の若い女性が、非常に上がっているのか、音が充分に鳴らず強弱など殆どなくただ指を動かしているだけ、といった極めて拙い演奏をした後に、私たちの前の列に座った。日本人の友人2人と一緒だった。彼女は席につきながら、

「あれ、一体何よ」

と自分の演奏のまずさにしょげているので、

「ちょっと緊張しちゃったねえ、でもまあ、なんとかなったじゃない。」

と、私はおせっかいにも彼女の友人に加わって慰めた。そのまたしばらく後で、王さんがやわらかい音で美しい演奏をしたので、私は友人になったばかりの彼女が上手く弾いたのが嬉しくて、つい、

「この子、上手いねえ」

と声を出して言ったら、前に座っていた3人が一斉に振り返り、ものすごく悪意に満ちた目つきで私を睨んだので、びっくり仰天した。何か悪い事を言ったかしら、と考えたけど、思いあたらない。どうやら「他の人を褒めるなんて許せない。」という感覚らしい。

あるヨーロッパ人の女性が有名なトルコ行進曲つきのソナタを弾いた。この曲は一楽章が変奏曲になっていて、いたるところに繰り返しがあり、彼女は全部の繰り返しをしながら弾いていたところ、審査員席から

「繰り返しをしないように」

との声が響いた。それでも、くせがついているらしく、また繰り返しをしてしまったら、今度は大声で

「繰り返しをやめろ!」

と怒鳴るので、聞いていた私達はいたたまれない気分になり、彼女をとても気の毒に思った。

その日の約30人が全員弾き終わったあとしばらくして、合格者の発表があった。私達3人は、早速自分達の採点と見比べた。すると、信じられないようなことが明らかになった。

ヨーロッパ人らしき名前の参加者については、私達の採点で上位だった人が順当に合格していたのに対し、アジア人に関しては、採点とは殆ど無関係の選び方だった。私も王さんも落ちていた。青木さんはそれを見ながら、

「やっぱりねえ、あなたの演奏は、ちょっとはっとする所のある演奏やったから、落とされるんやないか、と実は心配してたんや。」

と言った。そこへ、会場で私達の前に座っていた女性が来たので、

「残念だったねえ。」

とよく確かめないで言った。その人の演奏はあまりにひどかったので、合格するはずはない、とはなから思っていたからだ。ところが彼女は、むっとした表情で、しかし勝ち誇ったかのように「私、通ったのよ」

と言ったので、驚きのあまり返す言葉がなかった。

こんな気分の悪い場所にはそれ以上いたくないから、コンクールの続きは聴かず、ザルツブルク観光もせず、さっさと帰途についた。それから3ヶ月くらい経ったころ、私のもとに「入賞者演奏会」のレコードが送られてきた。それによると、1位になったのは35歳のオーストリア女性で、あの「トルコ行進曲つき」を繰り返ししながら弾いた人だ。この人を一位にする、と最初から決めてあったコンクールだったらしい。それゆえ、年齢制限もなかったし、また、子飼いの弟子だから、あのように会場で怒鳴ったりもしたのだ。彼女を気の毒に思った私がお人よしだったわけだ。腹が立つ、というより、あきれ返る、という感じで、そのレコードは「あのコンクールのやりかたに同意できないから、こんな物はいりません。」と書いた手紙をつけて送り返した。

フランクフルト音大でこの話をしたら、自分も同じような目にあった、という日本人がいた。声楽で、のちある有名音楽大学の教授になった女性は、やはりオーストリアはウイーンのフーゴー・ヴォルフ・コンクールで同様の腹立たしい経験をし、入賞者演奏会の際に友人とともに「ブー」(引っ込め!)と叫んだのだそうだ。そしてまた別の女性は、フランクフルトで師事していたエリザベート・グリュンマーという先生がご病気の為、教えてもらえなくなったので、バッハのマタイ受難曲のエヴァンゲリストとして有名な某テノール歌手に師事したいと思ってオーストリアまで行ったところ、彼は彼女の歌など一切聴こうとせず、

「貴方は授業料をいくら払えますか」

とだけきかれ、驚きあきれて逃げ帰ってきた、と言っていた。オーストリアがどこでもこの様なのかどうかは知らないが、非常に悪い印象が頭にしみついてしまった。

このようにソロのピアノコンクールでは不振だった私だが、時にはいいこともあるものだ。

音大に入学直後、一緒に弾いたヴァイオリン二スト、バスマの夫がチェリストで、やはりエジプト人だが、専攻科の優秀な学生だった。このカーメルとデュオを組んで、イタリアはシチリア、トラパニの室内楽コンクールを受けた。このコンクールは室内楽なら何でも参加できるので、全部で90組ほどの出場者だったが、様々な楽器の編成によるデュオあり、トリオあり、カルテットあり、中には聞いたこともない民族楽器の出演もあって、バラエティーに富んでおり、聴き手にとって極めて面白いものだった。非常に小さな、笹笛のような楽器とピアノのデュオがあり、笛の奏者はなかなかの名手だったが、この笛は音程の調節が出来ないらしく、吹き始めた時には正しい音程だったのに、終わりかけには約半音もピアノより高くなっていたので、聴き手は耳をおさえてこらえていた。

このコンクールではどうやら審査員の好みが私達に有利にはたらいたらしい。一次予選に演奏したブラームスのチェロソナタ1番の第3楽章(フーガ)で、カーメルが「気分に乗りすぎて」予定外の大テンポ・ルバート(意図的に音を引き伸ばしたり短縮したりする音楽表現技巧)をしたために、ピアノとチェロがずれてしまって、そのまま1ページくらいずれたままで弾き続けた。独奏なら本番でいつもと違った事をしても大丈夫だが、室内楽の場合はそうはいかない。一人が予定外のことをすれば、合わなくなってしまう。一時的に合わなくなっても、大抵は簡単に修復できるのだが、フーガはややこしいので、チェロが弾いている部分を見つけるのに時間がかかったのだ。2人ともすっかり落胆し、これでは絶対駄目だ、もう落ちた、と思っていたが、どういうわけか合格した。二次予選はベートーヴェンのソナタ第5番とドビュッシーで難なく通過したが、三次の本選会の際、ラフマニノフのチェロソナタの第2楽章(スケルツォ)を、ものすごい勢いで弾き始め、しばらくしてはっと気がついたらチェロが聞こえてこない。これは一体どうした事かとチェロの方を見たら、カーメルが、演奏するかわりに、2メートルばかり前に落ちた弓を睨んでいる。勢い込んだあまりに弓を投げ飛ばしてしまったのだ。仕方なく一旦演奏を中断し、弓を拾い上げてまた始めからやり直した。そんなわけで、これではいよいよ駄目だ、入賞なんてありえない、と思っていたが、結果は3位入賞だった。きつねにつままれたような気分でいる所へ、審査員の一人がやってきて、

「貴方達の演奏は非常に良かったが、ハプニングがありすぎたから、これ以上、上位には出来なかった」

と言うので、私達は2人とも恐縮し、

「いえ、これで充分です。」

と答えた。

翌年、1986年2月にはバスマとカーメルの出身地、エジプトに演奏旅行した。バスマの母親が文化関係の有力な政治家だったので、この母親がエジプト日本大使館と交渉し、大使館が私を招いてくれたのだ。おかげで大使館員の行き届いた世話つきの、極めて快適な旅行だった。ソロと、デュオとトリオの演奏会の合間には、ピラミッドなどの観光をさせてもらったし、また夜にはキャバレーで本場の素晴らしいベリーダンスを見る機会もあった。もっとも、バスマはベリーダンスを国辱と思っているようだった。女性を性的な娯楽品として扱っている、という感じがするからだろう。そう言えば、エジプトはイスラム教国なのだが、彼女の母親のように、政治的な面をはじめ、色んな分野で高い地位についている女性の数は、日本と比べ物にならず多いように思えた。行く先々で、男に命令している威厳のある女性に出くわした。

この楽しい旅行にも、ひとつ欠点があった。それは、エジプト人が時間にルーズなことだ。カーメルやバスマと練習のために待ち合わせても、時間どおりに来ることは1度もない。フランクフルトでも、時々は頭にきたが、エジプトでは他の人もみなそうだから、そのルーズさは輪を掛けたひどさだった。ある時、カイロの音大の前でカーメルと待ち合わせたが、約束時間を2時間すぎても、まだ現れない。いらいらして、門衛さんに

「2時間も待ったけど来ないから、もう帰ろうと思う。」

と言ったら、

「え、どうして?そのうち来るよ。」

と、私がいらいらしているのが全く理解出来ない様子だ。仕方なくもう1時間待ったところ、カーメルが至極上機嫌な様子であらわれた。腹は立ったが、そこでは怒るほうが場違いなので、「郷に入れば郷に従え」と自分に言いきかせ、ぐっとこらえて機嫌の良さそうなふりをした。ある日、日本大使館で各国の外交官を招いてのパーティーがあったが、招かれた客があと全員そろっているのに、主賓とも言うべき、エジプト人のバスマの両親が遅れて来て、大使館員をはらはらさせた。それを見ながら、私は心の中で「やっぱり」とほくそ笑んだ。

1986年の夏、卒業試験を受けた。通常は5年勉強することになっているが、私は年を取っているから自分で超特急の3年半に短縮したのだ。副科の試験はその前の学期に全部済ませた。一次試験は演奏会形式で行われ、スカルラッティ、ハイドン、ラヴェルなどのソロを弾いた後に、ブラームスのピアノ協奏曲2番をフォルクマン先生の伴奏で全曲弾く、というハードなプログラムで、音楽理論を習ったクライン先生の作曲されたトッカータの初演もこの時に行った。二次試験は、先もって出してあったレパートリーのリストから選ばれた、ショパンのソナタや室内楽のラフマニノフを弾くほかに、試験開始の3時間前にわたされた曲を演奏する、という課題と初見演奏があり、これらは私の得意分野だ。最優秀を獲得し、専攻科に進んだ。

第6章

専攻科といっても、特に変わったことをするわけではない。音楽理論など、副科の授業が無くなる、というだけのことで、ピアノや室内楽は今までどおりだ。

バスマの提案で、ピアノトリオで室内楽コンクールに出ようじゃないか、ということになり、練習を始めた。彼女は明らかに、カーメルと私が賞をもらったことをうらやんでいて、自分も入賞者になりたかったらしい。しかし、練習は困難を極めた。まず、バスマのヴァイオリンは、音大の学生としては優秀だったが、あとの2人より技術的に弱く、彼女のせいで演奏が上手くいかないことはしょっちゅうだった。だが彼女はなにしろ名家出身の言わばお姫様なので、夫のカーメルは常に尻にしかれている状態だったから、彼が彼女に注意する事は皆無。私も人に注意するのが苦手なので、畢竟彼女の独壇場となり、彼女が間違っても、いつも私かカーメルのせいにされ、すると私達もだんだん腹がたってきてやる気がなくなる、というようなことの繰り返しになった。それに加え、例のルーズな時間感覚のため、二人でいつも約束時間より大きく遅れてきては、そのたびに遅れたことを小さな息子のせいにするので、私としては文句のいい様がなく、ただ怒りをおさえるのみだった。練習時間はそのため短くなり、コンクールの日が近づいてきても、充分に準備できていなかったので、結局出場はとりやめた。

しかし苦労して練習したのは全くの無駄にはならず、いくらかのレパートリーは出来たから、それを持ってアメリカはフロリダに演奏旅行することになった。そちらにバスマの親戚がいたからだ。

丁度このころドイツでは、サルマン・ラシュディーが「悪魔の詩」を書いたことによりイランで死刑の宣告をうけ、刺客をおそれてロンドンで地下生活を始めた、という話題でもちきりだった。アメリカ行きの飛行機の中でそのニュースをしていたから、私もその話題であとの2人に話かけたら、彼らは表情をこわばらせて返事しない。はっとした。イスラム教の人の考えは私達とは違うのだ、この話題は避けなければ、と気がついた。

初めてのアメリカは、公共輸送機関の不全さゆえに、かなり不自由なものだった。日本大使館の助けもないし、あとの2人は親戚の家に泊まっているので、私は1人で行動しなければならず、レンタカーを運転してどこかへ行こう、というほどの熱意もないので、練習と演奏会以外はほとんど泊めてもらっていた家に閉じこもりきりだった。1度だけ、家のおばさんの息子にたのんで、オルランドのブッシュ・ガーデンスに連れて行ってもらったが、スケールの大きな遊園地、というだけで、どうしても見る価値がある、という程のものでは無かった。

このあとしばらくして、バスマとカーメルが両方ともフランクフルトオペラオーケストラの入団試験に合格した。すると、もともとあまり勤勉ではない彼らのこと、オーケストラでの任務をこなすのが精一杯になり、とてもトリオどころではなくなったので、トリオは自然消滅の憂き目を見た。

そこへ、フランクフルト音大でヴァイオリンを勉強した後、マンハイムのオーケストラで弾いているミヒャエルが、彼の友人でまだオーケストラに入れずぶらぶらしていたチェリストのマルティンと一緒にトリオを弾こう、と声をかけてきたので、丁度相手はいないところだし、よく考えないで承諾した。

この2人は、前のパートナーと違って極めて勤勉で、合わせのときには何時も私より早く来て2人で練習していたし、また申し分なく性格のいい人たちだったから、最初は私も喜んでいた。

ところがだんだんに、彼らは私のパートナーとしては音楽的に不充分であることが明らかになってきた。一緒に有名なボ・ザール・トリオのピアニスト、プレスラーの講習会を受けにいった事があるが、先生の私に対する態度と、あとの2人に対する態度が大きくちがっていたりすることから、先生が「このピアニストは、何故こんな下手なやつらと弾いているのだろう」と思っているらしいことがありありと感じられた。

ある時、ホフマン先生がはっきり「あの2人と弾いていても、素晴らしいトリオになる見込みはない」と言われたことで私も決心し、彼らに、これ以上続けられないと伝えた。勿論、貴方達は下手くそだから、などとは言わず、今はソロに打ち込みたいから、という風な理由をつけたけれど、彼らは想像がついただろう。とてもいい人達だったし、一緒に練習するのは楽しかったので、この別れは実のところつらかった。共有していた楽譜を、持ち主を決めて取り分ける際など、本当に悲しくて、涙が出そうだった。でも、このまま続けている限り、自分に見合った共演者を見つけることは出来ないし、仕方のないことだった。室内楽の一番の難しさは、全員が満足して長く一緒に弾ける仲間を見つけることだ、という事がわかってきた。

専攻科の学生になってしばらくした頃、フォルクマン先生のもとで兄弟弟子であるウヴェが、音大諮問委員会の委員に立候補してくれないか、と私を説得にきた。この委員会は学内で起こる諸問題を相談する諮問機関で、教授代表、講師代表、及び学生代表から成りたち、選挙で3人の学生が選ばれることになっていた。先生は「貴方はいっぱい伴奏して有名だから、選ばれるに違いない」と言われたが、私は学内オーケストラで弾いたりしている人と違って、直接知っているのは小数の人だけだし、外国人だし、どうせ落ちるだろう、

それなら別に立候補してもいい、と思って承諾した。ところが蓋を開けたら、私は最高点で選ばれてしまい、音大諮問委員会の委員をつとめることになった。

この委員会では、学内で起こっている様々な問題について見聞することができた。例えばこのような問題だ。あるピアノ科の学生が、卒業試験でいい点を取って専攻科に進む事に決まったが、後になって、彼が試験で演奏した曲目は、3年前に中間試験で弾いたのと全く同じだという事がわかった。試験ごとに違った曲を弾くのは慣習法であり、あたりまえの事と思われていたので、この卒業試験は無効だ、と学長が告げたところ、すぐさまこの学生は弁護士に相談した。弁護士からの「同じ曲を何度も勉強するのは極めて有意義なことで、云々」といった詭弁を弄した手紙を前に、委員会ではみな頭をかかえた。調べによると、この学生は入試でも同じ曲を弾いていたのだ。つまり、学生時代の5年間、殆ど新_しい曲を弾かなかった、というわけだ。彼の先生は、勿論そのことを知りながら、眼をつぶっていたわけで、それには何か裏の理由があるらしい、この先生は離婚して以来お金に困っていて、この学生の親に助けてもらっているのだ、ということまで各委員の知るところとなったが、結局、明記された規則が無い以上、裁判に持ち込まれたら勝ち目はない、ということから、この卒試は認めざるを得ない、と決定された。この後は、「試験では、同じ曲を繰り返すことは原則的に許されない」と明記されることになった。演奏出来る曲数の少ない管楽器などでは、同じ曲の繰り返しもやむを得ない場合があるので、「原則的に」というただし書きがついたのだ。

1988年夏に演奏家資格試験(コンツェルトエクサメン)を受けた。この試験は、点数はつけられず、受かるか、落ちるかだけであり、また、受けるところまでこぎつければ、殆ど必ず受かるものだった。試験は2回にわけて行われ、最初はフォルクマン先生の伴奏によりベートーヴェンの皇帝とラヴェルの左手の協奏曲を続けて弾き、また別の日にアルテ・オーパーというフランクフルトではもっとも重要な演奏会場でベートーヴェンの作品111のソナタ、ブラームスのパガニーニの主題による変奏曲、ヒンデミット、スクリャビンなどによるソロのプログラムを弾いた。

この最終試験が終わった後、私はフランクフルト音大ピアノ科の非常勤講師になった。

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